1月18日(日)「強さと弱さ」説教要旨
 Ⅱコリント12:5-10

  強さと弱さというと、ふつう「弱さ」の方が問題になります。しかし、「強さ」も問題です。なぜなら、「強さ」にも、強情とか、傲慢とか、暴力と言ったような問題があるからです。 ふつう強さと弱さとは、正反対と考えられがちです。しかし、強さと弱さは、正反対な面もありますが、互いに入り組んでいることもあります。

  今日の聖句の最後には、「私は弱い時にこそ強いからである」と、パウロは言っています。これは、彼の宗教的経験でしょう、しかも病気の経験でもあります。
  彼は、今のトルコからギリシア、マケドニア、シリア、イスラエル、ローマにまで全部ほとんど徒歩で、また船で回っています。それどころか、ローマ人への手紙には、スペインにまで行く計画があったようです。
  こんな大旅行をする人は、天性丈夫なからだの持ち主だと思うでしょう。しかし、実際は違います。正反対です。「私の肉体にとげが与えられている」(7節)と言います。しかも、「これを私から離れさせてくださいと三度主にお願いした」とあります。
  三度というのは、「三回」の意味ではありません。「何度も」ということの表現です。つまり、パウロの病気は慢性病だったのです。その病気が何かは、はっきり分かりませんが、どうも癲癇(テンカン)ではないかと想像されます。伝道の途中で、急に発作が起きて、泡をふいて倒れることは、伝道のさまたげ以外の何ものでもありません。彼が必死にそれを去らせてくださいと何度も祈ったことは、納得できます 。

  しかし、その反対に彼の伝道の中核も、この彼の弱さにあったことも確かです。私自身自分の病弱の弱さの中で、悟りえた宗教的体験もいくらもあるのです。
  この弱さの中で、パウロは、神の声を聞きました。「私の恵みはあなたに対して十分である。私の力は弱いところで完成するからである」。
  「弱いところに完全にあらわれる」(口語訳)、「弱さの中で十分に発揮される」(新共同訳)は、適切ではありません。「弱いところで完成される」と訳した方が適切です。「神の恵みが、私の弱さのところで、完成する」。すると神の恵みは、この私の弱さがないと完成しないことになります。神の恵みの完全さのためには、この私の弱さが必要なのです。「そこでむしろ私は、キリストの力が私をおおうように、大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と言えるのです。

  ではどうして、「神の恵み」のために、「私の弱さ」が必要なのでしょう。たとえば、私は、若いころ病気がちで、ほとんど学校を休んでいました。しかし、そのことから宗教を求め、宗教的な多くの経験もしました。
  私たちは「人間」というと、ほとんど成人の健常者を考えます。しかし、神は人間という時、「罪深く、弱い、病的な人間」を真っ先に考えられるのです。その証拠に福音書に出てくる人間は、ほとんど病人や心の病んでいる人ばかりではありませんか。パウロは、ここで
「私の恵みは、あなたに十分です。私の恵みは、弱いところで完成するからです。そこでむしろ私は、キリストの力が、私をおおうようん、大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。それゆえ、私はキリストのためならば、弱さ、はずかしめ、乏しさ、迫害、行き詰まりを喜びましょう。それは私が弱い時にこそ、私は強いからです」
と書いています。
  パウロは、ここで「弱いけれども仕方がない」と言っているのではありません。これを「甘んじよう」(口語訳)とか、「満足している」(新共同訳)と言ってはなりません。原語は「喜ぶ」で、マルコ1:11に、イエスの洗礼に際して、天からの声が、「私は彼を喜ぶ」と言っているのと同じ言葉です。「弱いけれども仕方がない」と言う時、私たちは、「弱さ」に負けています。「弱さを喜ぶ」という時、弱さに勝利しています。

  弱さは、あなたの誇り、喜びなのです。なぜなら、イエス・キリストはベツレヘムの馬小屋を宿として、かい葉桶に生まれました。それは人間の弱さを住まいとなさったのです。深い信仰、強靭な思索、勇気ある行動は、この弱さを宿として生まれてくるものです。夏目漱石やゲーテやルターは、みなうつだったそうです。そこからはい上がる時、偉大な著作が生まれてくるのです。
  「神の国における偉大な者も、時として疲れることを思い起こすことは、つまらぬ慰めではなく、本当に正しいなであります。それは私たちの確信や力の限界を自覚するために言うのであり、疲れることは人間の本質に属し、それは精神的営みの中で、重要な機能であります」とは、学ぶべき言葉であります。

  世の中には、「完全主義」というのがあります。また「潔癖症」というのもあります。これらは、完全でないと承知しないのです。しかし、この地上で完成したなら、私たちにとって天上には何も残らないことになります。この地上で不完全というのは、よいことなのです。神が、地上の弱さを通して完成させてくださるなら、あなたの不完全さも、神の国の完成の基となるのではないでしょうか。  
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


Copyright(c)2005 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.