1月25日(日)「祈りと愛」説教要旨
ルカ11:1-10

  「愛が届くだけ、遠く祈りも届く」、私たちは愛していない人について、あまり祈りません。いや憎んでいる人のためにゆるしを祈ることがある、だからイエスは、「あなたの敵をも愛しなさい」と言われたのではないかと言うかも知れません。
  しかし、その時、敵を愛し始めているのですから、やはり「愛が届くだけ、遠く祈りも届く」と言うことが真理なのです。「祈りが届くだけ、遠く愛も届く」というその反対も真理ではないでしょうか。

  このように「祈り」と「愛」とは、しっかりと結びついています。もちろん自分のための祈りが、日常生活では多いでしょう。イエスのたとえにも、ルカ一八章の「やもめの祈り」のように、自分のための祈りもあります。キリスト御自身、十字架の前ゲッセマネの園で、自分のために祈りました。しかし、最後は「神のみ心のままに」でした。また十字架の上では、「彼らをゆるしてやってください」と、敵のために祈りました。

  今日の題は「祈りと愛」です。イエスのたとえの中には、今日のルカ11:1-10のように、他者のための祈りがあります。そこでは、
「あなたがたのうちだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。友だちが旅先から私のところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』」
と。

  このように、腹ペこで旅先から自分を頼ってくる友人があります。その時、友人をもてなす三つのパンがありません。
  よく人からこう聞かれます、「私は人から相談を受けることが多いのですが、どうしてあげてよいか分からないことがあって困っています」と。
  私自身もそういうことは、何度もあります。けれどもここには「友人」という言葉が、三つ出てきます。
  第一に腹ペこで旅先から自分を頼ってくる友人です。普通友達は、いざと言うとき助けてくれる人です。しかし、同じ友人でも、自分が助けなければならない友人もあります。今日のたとえは、その自分が助けなければならない友人のための、祈りです。
  ところがここに、第二の「友人」がいます。「あなたがたのうちだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください』」。真夜中にその扉を叩かざるをえない友人とは、神さまです。よく「困った時の神頼み」と申します。この人は、自分の友人に出す三つのパンがないために、この第二の「友人」(神さま)の扉を叩き始めるのです。

  このたとえの人は、このように頼れる友人[神さま]の扉を叩き始めました。それは正しい行為です。友のために、神に祈ることは、「とりなし」という、最も崇高な祈りの一つです。
  しかし、この第二の「友人」神さまは、頼れると思っていたら、正反対です。「面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めてしまったし、子供たちも私と一緒に床に入っているので、今起きて何もあげるわけにはゆかない」という声がかえって来ます。祈りは聞かれると言いますが、しかし、「聞かれざる祈祷」ということも真理です。ではなぜ聞かれる祈りに交じって聞かれざる祈祷があるのでしょうか。それは、これまで話してきた「友人」という意味をはっきりさせるためなのです。

  
「しかし、よく聞きなさい。友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう」
とイエスは、「聞かれざる祈祷」の意味を説明します。
  それは「友人」ということにかかわっているのです。ここに第三の「友人」が出てきます。
  これは「友人」というよりか、「友人関係」と言ったほうが良さそうです。神さまが、「友達」のように、親しくなるのはよいのですが、それを通り越して「なれっこになる」、そういうことがないでしょうか。
  たとえば、自分はクリスチャンホームの出だとか、洗礼を受けて何年になるとか、神学を学んでいるとか、ミッションスクールを出たとか、すべてそれは神さまとの友人関係です。もっと平たく言えば、信仰の習慣性です、なれっこになってしまっている関係です。

  そこで「しきりに願う」、それは、原語で「アナイデイア」で「厚顔不遜」、「あつかましい」、「なりふりかまわず」という、本来悪い言葉です。強引と言ってもよいです。
  つまり、祈りとは、神さまと友人関係、なれっこでなく、熱心に、なりふりかまず願う、そのことでしかないのです。信仰者でも、今日初めて来た人でもかまわないのです。息子の会社の問題でやめさせられるかもしれない、その時一晩中祈った母がいます。すると出来事が起こります。そして予想、予見、予感をすることがあります。
  神さまが、「友達」というのでは、与えられない、しかし、なりふりかまわず祈る、その時、神は全く違ったものになる。そこでは信仰の年月によらない、今初めて福音を聞いた人でもよい。聞きかじりでもよい、あまりよく神学的なことが分からなくてもよい。ただ熱心に、あつかましく、断固として祈る、その時、あなたにとって神は、変わってくるでしょう。神はあなたに必要な出来事を起こすでしょう。あなたははっきりと神の現臨を悟るでしょう。  
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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