2月1日(日)「十字架の意味」説教要旨
イザヤ書53:4-12  Ⅰペテロ2:18-25

  十字架はキリスト教の中心的教えです。今日の聖書に、
「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しまれても、おびやかすことをせず、正しいさばきをする方に、いっさいをゆだねておられた」
とあります。
  これは一言で言えば、苦しみの中にある愛の「模範」です。ある神学者は、神の本質は愛である。その愛は最高の価値である。その愛を地上で実現されたお方がキリストで、ここに神の愛の啓示がある。それは愛の模範を残し、私たちを「道徳的に感化する」ためにほかならないと言いました。そしてこの十字架にならって愛を実践する世界が神の国です。

  この考え方は、今読んだキリストの「模範」で、必ずしも間違っていないでしょう。しかし、愛の「模範」だけでは十字架の福音を十分言いつくしていません。後半があります。
「さらに、私たちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、私たちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたはいやされたのである」。

  ここに「罪」問題があります。イエスを模範として一生懸命愛に生きても、壁にぶつかります。それは自分の罪か他人の罪かです。自分の罪の例をあげましょう。親の手前みその自己愛は、子供を正しく育てるどころか、子供の自由を奪い、子供を親の愛の犠牲にしてしまうことさえあります。親は、それに気づきません。こんなに愛し、こんなに犠牲をはらっているのだからとばかり思っています。愛には、罪がひそんでいます。愛する人ほど罪深い人はいません。「愛は惜しみなく奪う」のです。

  愛は他者の罪につまづくこともあります。親身になって愛したのに裏切られることがあります。それは愛する人は、こんなに良いことしているのだから、当然感謝されてよいはずだと思っているからです。
  今日の聖書は、この私たちの罪の問題とキリストの十字架を結びつけています。「私たちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、私たちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたはいやされたのである」と、ここには大切な三つのことが出てきます。

  1「罪に死ぬ」。2「義に生きる」。それは自分の義ではなく、神の義に生きることです。手前みその愛ではなく、自己が死ぬことです。そして神の義に生きることです。
  3「いやされる」、「ゆるされる」ことです。「模範」だったら道徳でしかないが、ここでは宗教的価値が問題。新しいものです、それが罪といやしの課題です。「いやし」と「ゆるし」、それはどこからくるのでしょうか。この言葉は、旧約聖書のイザヤ書53章からきています。  
「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた、また顔をおおって忌み嫌われる者のように、彼はあなどられた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるにわれわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし、彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ、彼は自らこらしめを受けて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によっていやされたのだ」(53:3-6)。


  ここには「いやし」と「代理」という考えがあります。戦後の中国で、上官の罪をかぶされ、戦犯で死刑を宣告された男がいます。ここに「自分の罪を人に負わせる悪人(上官)」と、「人の罪を自らになう良き人(キリスト)」とがいます。人間のあくなき罪を負われたお方。ここに十字架の意味があります。しかし、それがただ十字架にかかった「良い人」であるなら、どうして罪人の罪をゆるす力があるでしょう。この方は神でなくてはなりません。神のみが、人のあくなき罪をゆるされます。
  それゆえ十字架のイエスは、「どうか御国に入るとき、この私を覚えていてください」と、十字架のかたわらの盗賊が頼んだ時、言われました。「今日、あなたは私といっしょにパラダイスにある」と。これが真のいやしです。罪深い者と共にある、それが十字架の上で起こります。「インマヌエル、神われらと共に」、それはクリスマスの使信でした。今、十字架の福音となりました。

  私たちはその結果、「ありがとうございます」と言うだけでなく、この感謝の言葉は行為になって表れます。「さらに私たちが罪に死に、義に生きるために」。イエスは言われます、「あなたの深い罪は、私が負った、あなたは新しくなった、行きなさい、これからは自分の義ではなく、神の義に生きなさい」と。
  イザヤ書53章の後半は次の通りです。
「彼が自分をとがの供え物とっする時、その子孫を見ることができ、その命を長くすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわが僕はその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ私は彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」(53:10-12)。


  十字架に対しては、ただ「ありがとうございます」だけでなく、感謝の実りを結ばないはずがありません。小さな信仰と大きな信仰があります。小さな信仰は、ただ十字架に感謝するだけで、何もしない信仰です。大きな信仰は、感謝の実りを生む信仰です。
  しかし、大きな信仰にも、自分はこんな大きなことをしたと自分を大きくする信仰があります。そうではなく、神を大きくする信仰です。その時、前半の「模範」が生きてくるのではないでしょうか。「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」と。賛美歌がそれを教えています。
「主の苦しみは、わがためなり。われは死ぬべき罪人なり。かかるわが身に代わりましし、主のみこころは、いとかしこし。なつかしき主よ、はかり知れぬ、十字架の愛にいかに応えん。この身とたまを、とこしえまでわが主のものとなさせたまえ」
(136番)
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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