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2月15日(日)「下からのキリスト論」説教要旨
使徒行伝2:22-24
 私たち信仰者のキリスト論は、たいがい「上からのキリスト論」です。それは、
「初めに言葉があった、言葉は神であった・・・この言葉は肉体をとって私たちの中に宿った。私たちは、その栄光を見た」(ヨハネ1:1・14)
あるいは
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきことと思わず、かえって、おのれをむなしくして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」(ピリピ2:6-7)
に現れています。これはキリストの神である面が強調され、反面、キリストが人である面が弱くなります。その分、信仰がいささか抽象的にならないでしょうか。しかし、「下からのキリスト論」は、未信仰者でも分かりやすく具体的です。
 それは今日の聖書の箇所にあるように、
「ナザレのイエスは、神が彼を通して、あなたがたの中で行われた数々の力ある業と奇跡をとにより、神から遣わされた者であることを、あなたがたに示された方であった」、
 「あなたがたは彼を不法の人びとの手で十字架につけて殺した。神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである」。
 「だからイスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主またキリストとしてお立てになったのである」  (使徒行伝2:22-24) となっています。イエスが奇跡や力ある業により、神から遣わされた方であることが明かになった。このすばらしいお方を人びとは十字架につけて殺した。しかし、神は彼をよみがえらせた。こうして神はこの方を主とし、キリストとなさった。それは「イエスの復活」こそ、この方が神の子である証拠だと言っています。  この「下からのキリスト論」の中心にある復活とは、「十字架で死んだキリストは、実は真に生きている」ということです。しかし、復活については、いろいろ考えられます。代表的考えをあげましょう。
- 1.それは弟子たちの憧憬からくる幻影ではないか。(幻影論)
- 2.キリストの精神が後世まで生き続けたという意味ではないか。
 (精神継続論)
- 3.弟子は、墓の死体を盗み出して、宣伝した。(宣伝論)
- 4.実際に、生き返った蘇生した。完全に死んではいなかった。
 (蘇生論)
 復活の真のメッセージは、そのどれでもありません。それは、全く新しい出来事、希望の出来事、終末的永遠の出来事です。それは、私たち自身の死の問題にかかわってきます。上の1-4は、「私たちの死」に関係せず、ただ説明や推測に過ぎません。「人間は皆死ぬ」、とすればキリストの復活は、人間全体の問題です。あなた自身の実存の問題です。あなたや私はやがて死ぬからです。私たちの課題として考えると、キリストの死と復活には、過去・現在・将来の三通りの意味があります。
 1 キリストの復活によって、あなたの過去はどのように変わったでしょうか。あなたは新しくやりなおすことができる。ドイツの戦災で廃墟となった都市で絶望的になって希望を失っていたところ、ある人が、「キリストはよみがえられたのだ」と叫びました。その声に励まされ、皆、力を合わせ、町は復興しました。そのように復活は、絶望を希望に変えます。
 2 キリストの復活によって、あなたの現在はどのように変わったでしょうか。死を恐れずに、何事も勇敢にできる。  「感謝すべきかな、神は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を賜ったのである。だから愛する兄弟たちよ、堅く立って動かされず、いつも全力を注いで、主の業に励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦はむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」  (Ⅰコリント15:56-58)。
 3 キリストの復活によって、あなたの将来はどのように変わったでしょうか。希望がでてきました。友や親しい者、愛する人びとの死に面しても、いや自分自身の死に際しても慰めを与えられます。復活の希望をもつことができるからです。
 しかし、「上からのキリスト論」と「下からのキリスト論」とは同じことの両面です。キリストの存在の面から見ると、「上から」だけれども、私たちの認識の面から見ると、「下からのキリスト論」です。
「死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし、感謝すべきかな、神は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を賜ったのである。だから愛する兄弟たちよ、堅く立って動かされず、いつも全力を注いで、主の業に励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦はむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」 (Ⅰコリント15:56-58)。
「ナザレのイエスは、神が彼を通して、あなたがたの中で行われた数々の力ある業と奇跡とにより、神から遣わされた者であることを、あなたがたに示された方であった。このイエスが渡されたのは、神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人びとの手で十字架につけて殺した。神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである」。「このイエスを神はよみがえらせた。そして、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それを私たちに注がれたのである」。「だからイスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主またキリストとしてお立てになったのである」 (使徒行伝2:22-36)。
「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これが私たちの主イエス・キリストである」 (ローマ1:3-4)。
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