3月29日(日)「男性と女性の間の生きた交わり」説教要旨
創世記1:27  ガラテヤ3:26-29

   男性と女性というのは、必ずしも夫婦である必要はありません。ドイツでは、一人になったお年寄りが、皆、ガールフレンド、ボーイフレンドをもっています。これは何を意味するでしょう。
  ヨーロッパ社会では、一人の男と一人の女このペアは、生活の基本で一人だけということは考えられません。
「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1:27)

  人が神の似像に造られたこと、それは男と女に造られたことです。すると公園のベンチで若い男女が親しくしているのも、神の似像がそこにあるということになります。しかし、この似像は、罪を犯しているため崩れてはいますが、しかし、依然として似像に違いありません。本質として似像は残っていますが、現実には壊れています。その罪のため壊れたことが、男女の間の生きた交わりの大問題なのです。

  しかし、この似像は、違いの一致です。それは三位一体の神に対応しています。
  三位一体も父・子・聖霊と違いますが、しかし、別の神ではなく、一体です。人間では、その写し絵は、男と女に造られたことにあります。

  では男女の違いとは、何でしょう。創世記3:16以下に、罪を犯し神を離れたため、女には「産みの苦しみ」、男には「労働の苦しみ」が与えらたとあります。すると、女性の使命、役割は、「産む、育て、養う」ことにあり、男性の使命、役割は、「働き家族を養うこと」にあるように見えます。事実、
  男性と女性の違いは何か、はっきり言って、子宮と卵巣のあるのが女性で、ないのが男性です。男性には絶対できないことがあります。それは子を産むことです。 ]
  パウロは、
「主にあっては、男なしに女はないし、女なしに男はない。女が男から出たように、男は女から生まれるからである。そしてすべてのものは神から出たのである」(Ⅰコリント11:11)

  と言っています。人間はすべて、男も女も女から生まれるのです。それで兵隊さんが戦死する時、「お母さん」と言って死ぬのです。男にとって母親というのは、特別な存在です。女性の本質は、「母性」だと思います。

  しかし、この違いをよく弁えないと、男女間に争いが起こります。男と女は、違うのです。もちろん、女性が外に出て働くことはあるでしょう。にもかかわらず、その場合でも、女性のこの母性的本質は変わらないのです。聖霊は母性だと言われます。「慰め」、言いがたい嘆きをもって「とりなす」、それは聖霊の業と共に、女性、母性の本質だと思います。柔らかさ、情緒的、優しさがそこにあります。これを「永遠に女性的なもの」とゲーテは言いました。
「あなたがたはみな、キリストにある信仰によって、神の子なのである。キリストにあうバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである」
  (ガラテヤ3:26-28)

  「キリスト・イエスにあって一つ」と書いてあるのに、男と女がなかなか一つになれないのは、人間が罪を犯したからです。罪とはエゴイズムのことです。
  人間は、自分の目を見ることも、自分の顔を見ることもできません。人間は、自分の罪を認めません。それが見えないからです。他人の罪はよく見えます。したがって人の罪を責めます。自分の罪は責めません。
  しかし、キリストにあるとは、十字架の愛の上にあることです。十字架は夫婦の交わりにも必要です。それは罪のゆるしです。「ゆるしうるものをゆるす、それならどこに神の力がいるのか、ゆるしえざる者をゆるす。そこから先は神のためだと知らぬか」(八木重吉)。神なしに、私たちはひとをゆるすことができません。

  しかし、「ゆるし」だけだと、表題にある「生きた交わり」になりません。やはり男女は、生きた関係になるためには、「怒る、喧嘩する」ことも大切です。それは怒る時、本当のことを言うからです。
  しかし、「怒る」時、怒りを翌日まで続くてはいけないというのが聖書の教えです。
「あなたがたは偽りを捨てて、おのおのその隣り人に対して、真実を語りなさい。私たちはお互いに肢体なのだから。怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤るままで、日が暮れることがあってはならない」
  (エペソ4:25)

  とあります。 怒り喧嘩することは、よいのです。しかし、「日の入るまで、怒り続けてはいけない」、そこにゆるしがなくてはならない。「怒るとも罪を犯すな」です。そこで「愛の反対は、無関心である」というマーザー・テレサの言葉を忘れないようにしてください。関心があるから怒るのです。しかし、その関心は、関係へと修復されなくてはなりません。 無関心を克服した時、愛が生きるのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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