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4月12日(日)「復活のいのち」説教要旨
ヨハネ20:24-29
  「生命」とは不思議なものです。人間だけでなく、動物も、植物もいのちをもっています。
 アルベルト・シュヴァイツァー博士は、生きとし生けるものすべてのいのちを愛し、アフリカに医療伝道に参りました。蚊も殺しませんでした。
 ポッパーという科学哲学者は、4つの創発、1.最初のビッグバン以来の存在していた重水素の調理。2.地球上での生命の始まり。3.意識のは発現。4.人間の言語と大脳の発現、これらはいずれも予測不可能のそれ創造的出来事であると言っています。
 この私たちの生命は神の創造以外にはありません。私たちは、時々、死んだ方の葬儀(たいがい仏教)にでることがあります。その時、不思議なことに、キリスト教でない人が、「天国」について語り、「お父ちゃんは、今、天国で生きている」とか、「先に行って待っている」とか言うのを聞きます。人間は、自然のままにしていると、「天国がない」ことよりも、「天国はある」、そこで「死んだお父ちゃんは生きている」と確信しているのです。
 この確信が、そのまま聖書の復活信仰にはなりませんが、このことは、私たちの復活信仰を考える上で大切なことです。誰でも生命が永遠に続くということは信じているのです。神は、「人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでおなお、人は神のなされる業を初めから終わりまで見きわめることはできない」(伝道の書3:11)
 その人間に、今、一つのしるしを与えられました。一般の人間が漠然としてではあるけれども確信している、天国、永遠のいのちを知らせるために、この地上に「しるし」を立てられました。イエスというお方を通して、永遠のいのちということを具体的に、きわめて適切に、あいまいにではなく、はっきりと示されました。
 御子は、「ポンテオ・ピラトの下に十字架につけられ、死にて葬られ、黄泉(よみ)にまでくだり、三日目によみがえり、天にのぼり、父なる神の右に座された」。これが信条の語るところです。
 イエスは実在です、ポンテオ・ピラトという紀元26年から36年までローマの総督を務めた人の時代に、十字架につけられ殺されました(多分紀元30年)。しかし、三日目です。はっきり日にちまで決まっています。弟子たちの間に生きられました。
 それは蘇生ではありません。蘇生ならもう一度死ななくてはならないからです。霊的からだの復活です。当時、弟子たちでさえ信じられませんでした。それが今日読んだヨハネ福音書のトマスです。この疑うトマスにも、イエスは現れて、自分を示しました。それが新しい命の「しるし」、証拠です。あの弟子たちが、最初疑っていた弟子さえもが、信じるに至った、そのイエスのよみがえりの形で、私たちは、いのちによみがえるのです。
 弟子たちは、「ユダヤ人を恐れて、いる所の戸を閉めていました」(ヨハネ20:19)
 するとイエスがやって来て、中に立ち、「平安あれ」と言われます。復活の主は、不安のまっただなかに立って、私たちに平和を告げます。「主よ、私たちはあなたによって造られたゆえに、あなたを見いだすまでは、平安をえません」と、アウグスチヌスは申しました。神に造られた私たちは、神を見いだし、神に到達するまでは、本当の平安をえないのです。
 復活とは、私たちに本当の平安を与える主の到来です。「あなたは平安がありますか」。そんなことは考えてみたこともない、こう言われるかも知れません。しかし、突然、会社にいっていた人が、すべてから逃げ出したくなり、蒸発したり、自殺したり、全く原因が分からずに、あんな元気な子がというほどの者が、自ら命をたつのです。どうしてでしょう。平安がないのです。
 しかし、不安というものは、人間が、人間として生きてゆく上に大切なものでもあるのです。生存の不安は、いわゆる恐怖とは違います。
 たとえば怖いものが現れて恐ろしいので悲鳴をあげる、というのは、また過ぎれば、どうということもありません。けれども、生存につきまとう根本的不安は、一生つきまといます。死に向かってゆく人間存在は、不安なのです。
 キリストの復活とは、この人間存在の根本に横たわる不安のところに、神(平安の主)が訪れたのです。ですから復活の主は、まず「平安あれ」と言われたのです。
 この世の不安は、永遠なるものが欠けているのです。永遠性の欠如が不安を生むのです。そして、死は、最後の不安の原因、その牙城と言えるでしょう。なぜなら死は、人間存在の有限性を知らせる、具体的なものだからです。
 しかしまた死は、私たち人間の生を真剣なものにします。ですから、それは、永遠性を見る窓とも言えるでしょう。そして死の向こう側からの到来、それが今、訪れる復活の主なのです。別な言葉で言えば、復活の主は、死を突き抜けて、私たちの人間存在に、「神われらと共に」の事実をつげるのです。あなたは恐れる必要はない、永遠者が、ともにいる。「平和があなたとともにあるように」と言えるのであります。
 しかし、復活は、またつまずきであります。なぜなら、死んだ人間が生きかえる、そんな馬鹿なことは考えられないからです。
 しかし、それは弟子たちの見た幻影のようなものでしょうか。疑うトマスのところに現れた復活の主は、「あなたの指をここにつけ、私の手を見なさい。あなたの手をつけ、私のわきにいれなさい、信じない者ではなく、信じる者になりなさい」 と言っておられます。単なる幻影では、こういうことはありません。
 とすると、蘇生でもない幻影でもない、何事かが起こったのです。それは私たちが死を越えて、永遠に生きる生の姿と言ってもよいでしょう。
 復活は、既製の概念で縛られない全く新しいこと、「目がいまだ見ず、耳がいまだ聞かなかった」 神の現臨であります。不安の生のただ中に、「インマヌエル、神われらと共に」 が始まるのです。
 それは疑うこともできます。しかし、疑う者のところにも、復活の主は、現れました。生きて働く、永遠の神は、何物にも縛られないのです。疑いにも、不安にも一切縛られないのです。しかし、ここで、復活の主は、ご自分の十字架の傷あとをお示しになりました。復活の主とは、あの私の罪のために十字架にかかってくださったお方にほかなりません。永遠の希望の主が、来ます、その方がわれらとともにいます、そのことであります。
 あなたは、この永遠の希望の主を信じますか。「私の主、私の神」、これこそ真実の礼拝であります。
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ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。 |
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