4月19日(日)「人は変わりうるか」説教要旨
ヨハネ9:1-7

  私たちが、人間は変わりうるかと問う時、二つのことが考えられます。
  一つは、私たちがしょっちゅう気にしている自分の性格です。「性格は変わるでしょうか?」。性格は変わります。私自身、見事に変わりました。自分は青少年時代からだが弱かったため、気が小さく心配性でした。学生時代、運動スポーツはできなく、家にくる客に挨拶できない変り者でした。牧師になってからも、家庭訪問でベルを押す時、願わくば留守であることを望みながら押しました。
  それが見事に変わって、人と話すのが好きになり、明るくなりました。原因は何か、今振り返って考えると、一つは信仰です。カール・バルトの神学を学んだ時、神は永遠の初め、イエス・キリストにおいて、「インマヌエル、神われらと共に」を中心にすべてのことを導かれるという信仰を知りました。聖書によれば、
「神を愛する者、み旨ねによって召された者には、すべてのことが相働いて益となる」(ローマ8:28)
ということです。それで私は、すべて心配しないで、何事も大丈夫だと思うようになりました。

  もう一つは身体的なことです。若い頃、弱かったので何とか丈夫になりたいと思い、健康法の本を読みました。その中で、私を丈夫にしてくれたことが二つあります。
  「意志が医師」。「明るい希望に満ちた心の時の血清は、暗い時のよりも、はるかに免疫力がある」(フランクル)と言われます。「必ずなおる、よくなる」という意志が、医師なのです。
  もう一つは、「人間の体は7年ごとに新陳代謝して、もとの細胞は完全に新しくなる」と書いてあったことです。7年努力すれば、変わる、丈夫になると信じました。お陰で四十過ぎて、次第に丈夫になりました。

  これを今日の聖書、ヨハネ9:1-7で考えてみましょう。
「弟子たちは 、イエスにたずねて言いました、『ラビ、この人がうまれつき目がみえないのは、誰が罪を犯したためですか。この人ですか、その両親ですか』」

  私たちもよくやりませんか。何か不幸があると、その原因をたずね、それは先祖のたたりだとか、前世の因縁だとか、いろいろ説明をもっともらしくつけます。あるいは、あれは本人が悪いのだ、自業自得だなどと言います。

  私たちの説明は、いつも過去からの説明です。言ってみれば宿命観に支配されています。「だから仕方がない」とか、そこには、何の積極的な生き方はありません。東洋的な生き方は、宿命観が決定的です。
  私たちはどうでしょう、宿命観というような、高尚なものでなくても日常生活で、たとえばひとの性格とか、自分の能力とかを考える時、いつのまにか何か決定的なものとして扱いませんか。「うちのひとは、めんどくさがりで駄目なのよ。性格でどうにもしょうがない」とか、「私はこの点、まったくの能無しで、駄目」とか言わないでしょうか。
  この世の中で、案外決定的なものは少ないようです。駄目な人が、けっこう力を発揮する場合があるのです。問題は、私たちの中にある「過去思考」であります。駄目だと思う心が、いっそう駄目に拍車をかけるのです。 

  ところが今、イエス・キリストは言われます、「この人でもその両親が罪を犯したのでもありません。ただ神の御業が、この人に現れるためです」。
  言ってみれば、このイエスの答えは、弟子たちや私たちのように過去からではなく、反対に将来から、これから、神がなさろうとしていることから説明します。いやそれは過去からのように、単に観念的な説明、意味を与えることではありません。 「神の御業が」と言う時、そこには、これから、この不幸な人に、神がなさろうとしておられる行為が問題になっています。神が全能の神が、これからなさろうとしていることに目が注がれています。

  神は、宿命や過去に縛られません、神はいつも新しいのです。 しかも神は、説明ですまさず、事を行われるのであります。
「私は、あなたがたの時代に一つのことをする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じないような事なのである」
  (使徒行伝13:41)

  人間ではなく、神がそれをなさる時、宿命と見られるような不幸すらも、その恵みの業の対象なのです。何ものも、この神のみわざを妨げるもはありません。神は最も不幸のどん底にいまし、他ではみられないすばらしいことを行われるのです。その材料は、人間が捨てて顧みないような、どん底の不幸の場所であります。 「このような人のために生きる時のみ、人は神の栄光の輝きを見、その光りに照らされてた生を発見するのです」。

  しかし、神の御業が行われるには、時があります。私たちは待たなくてはなりません。からだの新陳代謝も7年待たなくてはなりませんでした。
  そのためイエスは、昼と夜の例で説明されました。昼は働く時、夜は待たなくてはならない時です。「私たちは、私をつかわされたかたのみわざを、昼の間にしなければならない。夜がくる。すると、だれも働けなくなる」。一日の内に夜と昼とがあるように、私たちの人生も、夜と昼とがあります。
  夜は全く、私たちが、ぐうの音もでないほど、打ちのめされた時です。キリストを信じない人、その人は夜です。 イエス・キリストの姿が小さいと、その人は夜の中にいます。宿命が、またぞろ私たちを支配し始めます。 宿命の夜に追いつかれないようにしましょう。
「光りはやみの中に照るのです。しかし、やみは光りに勝たなかったのです」
  「罪のますところに、恵みもそれ以上にまし加わるのです」
  (ロマ5:20)
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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