5月17日(日)「にもかかわらず」説教要旨
エレミヤ1:6-10 使徒行伝26:12-18

   「にもかかわらず」という言葉は、日常使う言葉です。ある現実で、誰もが当然と思うことの反対が起こることを確信している時に使う言葉です。
  私たちが「駄目だ」と思う時、「にもかかわらず、大丈夫だ」と言えるのは、信仰であります。

   今日の二つの聖書の箇所の一つは、エレミヤの召命の記事です。エレミヤは神の召しを受けた時、
「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか分かりません」
  (エレミヤ1:6)
と言って断りました。
  私たちも日常生活の中で、よく弁解し断ります。弁解の言葉には、誰でも事欠きません。モーセは、「わたしは口べたです」と断りました。しかし、「にもかかわらず」、神の召しは優先します。その答えは、いずれも神の「わたしがあなたと共にいる」でした。

   神はエレミヤに言いました、
「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。誰にでも、すべてわたしがつかわす人に行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。彼らを恐れてはならない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」。
つまり信仰者にとって、「にもかかわらず」とは、「神が共に」、つまりクリスマスの使信「インマヌエル、神われらと共に」です。

   もちろん、私たちは、モーセやエレミヤのように、民を救うようなことで、神の召しを受けることは少ないでしょう。しかし、「にもかかわらず」、「神われらと共に」は、日常的にも起こるのです。
  たとえば病気で、自分は駄目だ、と思った時、「にもかかわらず、もし神がわたしと共に」いますなら大丈夫だと思いませんか。大失敗しても同じです。それは日常性に反する信仰の言葉、「にもかかわらず、神われらと共に」なのです。

   もう一つの、パウロの回心の場合は、この「にもかかわらず」は、はるかにいちじるしいです。これは世界史的事件です。パウロは信仰者どころか、実はキリスト教撲滅の総大将だったのです。しかし、「にもかかわらず」、神はこの人を、福音の使徒と変えました。
  パウロは、このことを反省して後に自分自身を、「罪人のかしら」(Ⅰテモテ1:12)と呼んでいます。パウロに起こった「にもかかわらず」です。
  そしてここでも「神われらと共に」があります。それでパウロは
「わたしが今のようになったのは、恵みによる」(Ⅰコリント15:8)
と申しました。このように、「神は御自身に敵した者をもあわれみたまいました。ですから、わたしたちは、どんな人にも望みを失ってはなりません。あるいは、神に敵している時に、もうすでに神はその人を救いたもうかもしれません」。
  私たちは「あの人はこういう人だ」と簡単に口にします。しかし「にもかかわらず」、そうではないのです。神は、その人から何をなさるか分からないのです。子供の教育にも、人とのお付き合いにも、人間の判断に反する「にもかかわらず」、「神われらと共に」があるのです。

   事実パウロ自身、
「かって自分たちを迫害した者が、以前には撲滅しようとしていたその信仰を今は宣べ伝えていると聞いて、わたしのことで、神をほめたたえた」
   (ガラテヤ1:23)
と言っています。このように、過去が悪いという、そのことが、回心の後かえって、神の御業の大きさと変わるのです。これが神の業の「にもかかわらず」です。

   パウロの回心は、「突然、天から光が彼のまわりを照らして」、 起こりました。神の突然、俄然の「にもかかわらず」です。たとい待つ間は長くても、苦しみながらあえいでも、神の御業は早いのです。神がそのことをなさるなら、いつも「にもかかわらず」は「たちまち」です。
  今、その迫害者に突然光がさしました。光は二つのことをします。まず人をくらませ、打ち砕きます。しかし、反面また明るくし、照らします。

   かってパウロは自ら何の欠けもないと思っていました(ピリピ3:4)。しかし、人間は自分が欠けていないと思っている時、根本的なものが欠けています。自分は正しいと思っても、それはつまり自分の義になっているのです。そこには別な義が、神の義がなくてはなりません。
  光は、自分の義に酔っていた、この傲慢なパウロの一切を打ち砕きました。その時十字架に釘付けられたイエス・キリストが、天から現れたのです、「サウロよ、サウロよ、どうしてわたしを迫害するのですか」と。

  神は、わたしたちに何か有用な仕事に着かせる時、まずわたしたちを打ちのめします、パウロは、打ち砕かれて、ただ上からのものを待つ身となりました。

  信仰はある意味で、力の喪失です。それは、上からの力をいただくためにほかなりません。ほとんどすべての良いものは、ひたすら待つこと、祈ることをとうして、天からくるのであります。まさに、祈りの「にもかかわらず」です。
  神はこのように、福音の始まりに、救うに最も難しい人をキリストの使徒として用い、どのような者も、救われるのに困難ということはないと教えられたのです。罪人のかしらが救われたのです。どうしてその手下が救われないことがありましょうか。わたしたちは主よりも賢くなろうとしてはなりません。「神の愚かさは人よりも賢いのです」、ここで行動しているのは、神にほかなりません、文字どうり、この出来事の主なのです。「にもかかわらず」、「神われらと共に」であります。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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