6月14日(日)「大胆に失敗せよ」説教要旨
ゼカリア13:1 ローマ5:20-21

  キリスト者は、失敗を恐れてはなりません。いや、信仰のあるなしにかかわらず、「誰でも失敗を恐れてはなりません」。
  失敗を恐れることは、実は、自分の身の安泰だけを考えている、一種のエゴイズムです。信仰者は失敗を恐れません。なぜなら、
「その日には、罪と汚れとをきよめる一つの泉が、ダビデの家とエルサレムの住民のために開かれる」(ゼカリア13:1)
からです。また
「罪の増すところには、恵みもますますみちあふれる」(ローマ5:20)
からです。

  では「罪と汚れをきよめる泉」とは何でしょうか。はっきり言ってイエス・キリストの十字架です。十字架によって、罪ゆるされ、生かされた人間は失敗を恐れません。ことわざにも「失敗は成功の基」とあります。失敗は、私たちに学ばせます。失敗は、一つの新しい経験です。それによって人は賢くなり、何事かを学ぶのです。いや、失敗を通してしか学べないことも多くあります。
  その反対は「転ばぬ先の杖」、これは「用心しなさい」という意味です。慎重にやれという意味です。しかし、慎重すぎると、私たちの計画は勢いを失います。「石橋を叩いて渡る」ならよいのですが、「石橋を叩いて渡らない」結果になりかねません。確かに仕事をいい加減にやっていいわけはなく、慎重に丁寧にやらなくてはなりません。しかし、世の中、決して失敗しないということはできないのです。  

  失敗をしないでうまく行った場合と、失敗を通して得たものとは、格段の相違があります。失敗を通して得たものは、大きな体験になります。それは失敗をする前、ただ知識で得たものとは全くの相違があります。
  次に、失敗を恐れている時、いつも「御身大切」という保身術が働きます。そこには、冒険がありません。「信仰の賭け」もありません。ただ失敗をしないで、成功しようとする自分だけがあります。
  失敗を恐れない時、人間は、自分よりももっと大きなものを見ています。神さまの大きな目標を見ています。「わが敵よ、われについて誇るなかれ、われ倒るれば起き上がる」と。

  私自身、北海道の伊達教会での伝道は、大失敗だと考えていました。しかし、すべてそれは恵みの導きを得て、実は大成功だったのです。自分を捨てた業は、失敗することはありません。なぜなら、それは神に奉仕する業ですから、神が失敗することなど考えることはできません。神は失敗しつつ成功するお方です。神のマイナスは、より大きなプラスなのです。
  十字架のキリストが、その最たる例です。十字架は失敗だったのでしょうか。確かにこの世的に見れば、そして一時的には、パリサイ人や、ローマ人が勝ったかに見えました。しかし、長い目で見た時、それは二千年続く神の愛の出来事だったのです。もしイエスが失敗を恐れ、十字架から逃れたら、そこには何も起こらなかったでしょう。しかし、神は十字架から復活の勝利を生み出させました。
  十字架に復活が続くのは、大昔二千年も前の話、あるいは私たちの死後の話でしょうか。いいえ、それは死後であると共に、現在の私たちにも起こることなのです。十字架から復活を生み出させる神は、現代においても全くの死から完全な生を生み出させてくださいます。その神は、今、あなたの失敗を成功に、敗北を勝利に変えてくださいます。それだから、失敗を恐れるよりも、自分が神のみ旨ねに背いていないかを恐れなさい。そうすれば、すべてのことは必ず導かれます。その時、すべてのことを慮ってくださる神の平和と神の摂理に身をゆだねなさい。必ず導かれます。

  
「わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈りの霊とを注ぐ」(ゼカリア112:10)
とあります。「恵みと祈りの霊」です。
  つまり失敗を恐れるのではなく、神を恐れるのです。神への恐れがあるところ、失敗への恐れは姿を消します。それどころか、勝利の確信が生まれてきます。
  ルターは「大胆に罪を犯せ、しかして、より大胆に信じ、神をあがめよ」と言いました。今日の説教の題も、ただ「失敗を恐れるな」だけではありません。「大胆に」がついています。それはルターと同じく、「信仰」の表れです。それには「より大胆に信ずること」と「神をあがめる」ことが続きます。

  失敗を恐れないのは、神を信じるからです。神の摂理と神の導きを信じるからです。神なしに失敗をおそれるのは、自分中心主義です。しかし、神を信じて、あらゆる方策を講じて、なおかつ失敗するなら、大丈夫です。そこからは必ずよい結果がでてきます。
  そこでは、また隣人の失敗に対しても、寛容になれます。私たちは、他人が失敗すると、馬鹿ににし、「それ見たことか」と言います。しかし、神を通して失敗を恐れなくなった人間は、他人の失敗を暖かい目で見ることができます。愛の心をもって、その失敗が彼の学びになり、ついに成功に至ることを信じて、祈ります。信仰者は、他人の失敗においても、信仰をもっていられるのです。彼が、やがて成功するように祈ることができるのです。なぜなら、
「わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈りの霊とを注ぐ」(ゼカリア112:10)
  「罪の増すところには、恵みもますますみちあふれる」(ローマ5:20)
からです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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