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8月23日(日)「信仰とは希望をもつこと」説教要旨
  ヘブル11:1-3
 「信仰とは何か」。ヘブル書では、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(11:1) と言っています。それは「信仰とは希望のことですよ」と言っているのです。
 しかし、ヘブル書だけでなく、聖書全体が、「希望の書」なのです。それは聖書が、「主イエスよ、来りたまえ」(黙示録22:20) で終わっていることに現れています。
 私たちは、ふつう神さまを、上にいらしゃると考えがちです。その神は、この地上の罪人である私たちを救うために、キリストとしてこの地上に来てくださった。この方を信じることによって救われる。この上→下の信仰は、いささか個人主義的です。
 しかし、希望はどうでしょうか。今年ある年始状に「異常な時代に生きているのか。この世とはこうしたものなのか。よく分からないこの世です」と書いてありました。今日は、個人主義的信仰でやってゆけない、「時代」を意識させる時です。「世の中変えてください」、それは政治への関心になって現れ、また歴史への関心になります。希望の信仰は、神を前方に見て、歴史に働きかけます。
 ペテロ第一の手紙に、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、いつでも弁明できる用意をしていなさい。しかし、優しく、謹み深く明かな良心をもって弁明しなさい」  (3:14-16) とあります。
 これは当時、キリスト教とは「希望の宗教」だと言うことが分かっていたのでしょう。今イラン人のアリさんが日本の牧師となって伝道しています。それは戦地であったアルメニアの兵士がキリスト者で、自分の食料をほかの人びに上げている姿を見たのです。「あなたはどうして、こんな戦乱の中で、平気で希望をもていられるのですか」と聞くと、キリストの愛を説かれたそうです。こうしてアリさんはキリスト教に改宗しました。希望という一本の筋が通っている信仰でなければ、キリストを伝えることはできないでしょう。あなたには、このまわりの異教徒さえ不思議に思って尋ねる「希望」がありますか。「信仰とは希望のことなのです」。
 しかも、パウロは、「私たちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ていることを、どうして、なお望むひとがあろうか。もし私たちが、見ないことを望むなら、私たちは、忍耐して、それを待ち望むのである」 と言っています。
 「まだお金があるから大丈夫だ、まだ食料があるから希望がある」。これらは、みな目に見える希望です。それは本当は願望にすぎません。しかし、真の希望は目に見えない希望です。残っている希望のお金や食料がつきたら、それと同時に、希望も尽きるのでしょうか。それなら真の希望とは言えません。アブラハムが行くところを知らず出て行った、あの希望。それは目に見えるものが何もない希望でした。
 では信仰は一か八かの大博奕でしょうか。確かにパスカルは、「信仰は賭けだ」と言っています。しかし、それは、ただの博奕ではありません。そこには、神がいるのです。神以外のいかなる救いの望みもないのです。賭けや博奕には神は出てきません。
 それゆえ、信仰とは、目に見えないものを見て生きることにほかなりません。反対に言えば、目に見えるものが見えないように生きることでもあります。
 どんな美しいものにも眼を奪われず、目の前にある素晴らしい人格にもほれこまず、さりとて、貧しくみすぼらしい人、卑しくみにくいものも、見捨てず、すべてのものの後ろに神を見るのです。見えるものに捕らわれるなら、思いもよらない恐れや劣等感に襲われます。逆に、弱い者や小さい者に対しては、軽蔑やさげすみ、さばき支配が起こりかねません。
 けれども、希望の信仰者は、どんな時にも、見えないものを見つめています。目に見える偉大さは、死と共に消え去り、忘れさられることもあるでしょう。見えないものを見ている信仰は、アベルのように、死んでもなお、「信仰によって今なお語り」続けるでしょう。その人が何をしたか、どんなに大きな業をしたかではなく、たとい小さな目立たない生涯であっても、そこで何を信じていたかが問われるのです。
 マリアが、生前イエスのからだに香油をぬったことも、やもめがレプタ二つを捧げたことも、取るに足りない小さなことですが、福音と共に残り続けます。その際、信仰者は計算をしません。努力と効果、投資と成果のソロバンをはじきませんし、そのバランスも気にとめません。信仰には、バランスシートはありません。
 アブラハムは、召しを受けた時、「行く先を知らずに出て行った」のです。そこから先は、神の御業にほかなりません。計算をしか考えない勘定高い人は、自分の勘定したものすら受け取れないでしょう。見えるもののみに生きているからです。ここに描かれている信仰者たちは、皆、天国の勘定に生き、神さまの計算を信じたのです。皆さんは、この目に見えないものを信じて生きていますか。教会には、見えるものは何もありません。しかし、見えないものを見せてくれます。
 真理よりも数を愛してはなりません。「一人から、それも死んでいるも同然の人から、 天の星のように、海の浜辺の砂のように多さにおいて、おびただしい者が生まれた」 のは、サラが、「約束された方は、真実だと思ったからです」。つまり、ここにある旧約聖書の人びとの例は、みな等しく、「信仰によって」という言葉で始まっていることに注意しましょう。書かれているのは、「望んでいることの確信である信仰、まだ見ていない事柄の確認」である信仰です。彼らはみな、計算を越えた神を信じていたのです。「それゆえ、神は、彼らの神と呼ばれることを恥ずかしいこととされませんでした。彼らのために都を用意しておられたからです」  (11:16)。
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