9月13日(日)「 見たくないものを直視せよ 」説教要旨

    使徒行伝10:9-16

  私たち人間には、どうしても「見たくないもの」、あるいは「ふれたくないもの」というのがあります。 それは各人の好みの場合もあります。たとえば外国人は嫌いだ、あるいはアジア人ならよいが、アフリカの人は嫌いだ。
  またそれは各人の好みでなく、原理的、理論的な主義主張の場合もあります。 左がかったものは、嫌いだとか、反対に右翼的なものは嫌いだという場合もあります。

  これは好みや感情的好悪ではありません。特に原理的な場合、それは自分が正しい信じる原則にのっとているのですから、 単なる好みと違い、主義主張を貫かねばなりません。しかし、食わず嫌いというのがあります。自分の嫌いな主義主張でも、頭から拒否して、内容を調べもせず、反対、拒絶反応を示す人があります。案外、反対の主張の中に耳を傾けなくてはならないものがあります。  

  韓国の民主化運動の時、「金大中救出のため」仙台の学者文化人の署名をもって、社会党の議員のところへ行きました。自民党は嫌いでしたが、あえて宇都宮徳馬さんのところに行きましたら、とても喜んでくれ、後々までも私は、その人物にほれ込みました。それ以来、人間を見る時、枠で見ないで、実際に付き合って見ることが大切だと知りました。  

  今日の使徒行伝には、ペテロが祈っている時、夢心地でいたら、天から大きな布のようなものがおりてきて、そこにユダヤ人なら、決して食べてはいけない動物が入っていました。すると天から声があって、「それを食べなさい」と、ペテロはびっくりして、「主よ、とんでもないことです、清くないもの、汚れたものは何一つ食べたことがありません」。しかし、天からの声は、「神が清めたものを清くないなどと言ってはならない」でした。  

  これはユダヤ人の異邦人伝道のことを意味しています。ユダヤ人が汚れた食べ物、それは「異邦人」、ユダヤ人以外の外国人です。パウロも、キリスト者を迫害していましたが、ダマスコ途上で、キリストに出会い、それから異邦人伝道者となります。    
  ユダヤ教は、ユダヤ民族より外に広がりません。しかし、そこから出たキリスト教は、ユダヤ人の枠を越えて、全世界にひろがって行きました。どこに違いがあるのでしょう。イエス・キリストが律法の枠を乗り越えたのです。安息日律法に固執する律法主義者に対して、「安息日は人のために、あるので、人が安息日のためにあるのではない」と言われ、また「よきサマリア人のたとえ」でも、ユダヤの宗教家は、強盗に半殺しにされたものを、見て見ぬふりをして通り過ぎましたが、当時ユダヤ人が軽蔑していたサマリア人が、かえって民族、宗教などあらゆる既製の枠を越えて、傷ついた人を介抱しました。    

  イエスには、「敵をも愛せよ」という教えがあります。キング牧師は、それを実践しました。黒人が極端になり白人を暴力で倒そうとするのをやめさせ、「あなたの敵を愛し、あなたを迫害する者のために祈りなさい」と言いました。この枠を乗り越えたところにキング牧師の運動の広がりがあります。いまオバマ大統領はその影響を受けています。彼はイスラムとも、いや無神論者とも対話すると言っています。  

  以上によって、「見たくないものを直視せよ」という意味がお解りでしょう。私たちは、好みから、主義主張からも、自分と違う者を排除します。「見たくもない」と言います。しかし、神は言われます、「あなたの見たくもないものを、よく見なさい、そこに神のみ旨ねがあるかも知れませんよ」と。  
  ペテロは、清くないものは食べない、ふれないと言いました。しかし、「神が清いといったもの」を人間が清くないなどと言ってはなりません。ふところの広い人にならなければなりません。神はよい者にも悪い者にも雨を降らせ、太陽を与えています。神のふところは広いのです。  

  パウロは記しています。  
「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストにあうバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリストにあって一つだからである」
  (ガラテヤ3:23-29)

  ここがキリスト教が、ユダヤ教ともイスラム教とも違う点です。イエス・キリストが十字架を受け、そこで「父よ、彼らをゆるしてやってください。そのやっていることが分からないのですから」と言い、「汝の敵を愛せよ、迫むる者のために祈れ」と言われたこと、民族、国境、宗教の相違を越えて愛した、あのサマリア人のたとえ。その
  イエス・キリストの僕であるマーザー・テレサは、インドの国で愛の奉仕活動をしていた時、民族、宗教に関係なくあらゆる困っている人を助け、いよいよ最後に死んだ人には、その直前、その人の宗教を聞き、その宗教によって手厚く葬ったと言います。イエス・キリストには、この包容力があるのです。つまりここに違いがあります。十字架の愛のイエス・キリストがあるかないかの違いです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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