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9月27日(日)「 必然と偶然・必要と不要 」説教要旨
  伝道の書3:1-9 ルカ10:38-42
 今日のお話の中心は、人間の「自由」ということです。私たちの間には、「必然」、「必要」といった、「必ず」という字のつく考え方があります。つまり「ねばならない」ということです。この「ねばならない」が私たちの自由を縛ります。
 聖書の人は、現代の私たちとは全く違った世界に住んでいました。古代人は「神話的世界」に生き、現代人はそれに対して「科学的世界」に生きています。たとえば聖書にはいくらも奇跡が出てきます。古代人はそれを何の抵抗もなく受け入れます。治療の奇跡などは、現代人でも「精神的なものが変われば病気に影響する」と考えられます。いわば科学的合理的説明をして分かるのです。
 しかし、小さな子供を見てください。子供は奇跡をそのように合理的に理解せず、そのまま受け取ります。学校に入って、科学的世界観を教えられて初めて疑問を呈します。しかし、治療でなく、海の上をイエスさまが歩いて弟子たちのもとに来たとか、5つのパンで5千人の人を養ったという奇跡は、合理的説明はできません。ところが小さな子供は、それをすなおに受け入れます。
 それは詩の世界、ユートピアの世界、そして同時に信仰の世界でもあります。子供は信仰の世界、詩の世界に生きているのです。だからイエスは、「幼子のようにならなければ天国に入ることはできない」(マルコ10:15) と言われたのです。
 私たち大人には科学的自然法則というのが頭にあって、それが生活を支配しています。もし自然法則というものを、すべての生活に当てはめるなら、それは「すべて必然」の世界で、「偶然や自由」はないでしょう。ニュートンが重力の法則を発見したころは、自然法則万能の時代でした。しかし、今日では、量子力学の考えが出てきて、自然法則万能でなくなりました。自然の世界でも、各人各様に受け取れる。色も見る人によって違って見えるはずです。ただその違いが、小さいので、お互いが交わり話が通じ合うのです。すると、自然とは主体である私たちとまわりとの相互関係ということになりませんか。
 たとえば家に帰る、空中を泳いで帰ることはできません。しかし、家に帰る道筋は、自然法則できまっているのでしょうか。  私たちは生活の中で必然の法則で生きていることがあります。星、性格、宿命、いろいろあります。しかし、私たちの生活は、必然の中に、偶然、自由があるのです。もしそれがなければ、祈ることは無意味になります。
 発想の転換ということが言われます。自由にものを考え、必然よりも偶然の部分をより大きく考えるのが信仰です。その現れが奇跡だと思ってください。ということは、子供の方が、より自由にものを考えられる、それなのに、学校に入ると、必然の世界の呪縛に縛られるのではないでしょうか。たとえばコンピューターで検索して出てきたことは、コンピューターだから本当だと信じきってしまえば、それはコンピューターの呪縛に縛られることになりませんか。その証拠に、コンピューターに捕らわれる時、自由な発想は出てきません。
 神様は「自由」で愛のお方で、だれをも縛りません。これをキリスト者の自由と言います。絶対なお方は神さまだけで、それ以外に絶対的なものがなければ、私たちは自由ではないでしょうか。劣等感とか、うつと言うのは、「ねばならない」が多くあり過ぎるから起こるのです。信仰は私たちを、こうした必然の「ねばならない」から自由にします。
 「必要と不要」の問題も同じです。ルカ10:38以下を見てください。マルタは、食事が必要と考え、いつまでも手伝わないで御言葉を聞いているマリアに腹をたてました。イエスは決して食事の用意は不要だと言っているのではありません。その怒りが不要だと言っているのです。つまりマルタは、何かに捕らわれ、縛られていたのです。これは、肉体労働を軽視して、精神労働を尊重しているのではありません。
 良く読んでみると、このマルタには、奉仕にもう一つ、何か別なものが、付け加わっています。「奉仕プラスアルファ」です。この「プラスアルファ」がいけないのです。そのため彼女は、心を取り乱し、気も転倒してしまったのです。
 イエスは言われます、「あなたは、多くのことで思いわずらい、取り乱しています。しかし、無くてならないものは、多くはありません。ただ一つだけです。マリヤは良い方を選びました。それは、彼女から取りあげてはいけないものです」
 「無くてならないもの」とは何でしょう。最近見ていると、多くの人が失敗しているのは、家の問題と子供の教育の問題です。いずれもお金のかかることで、そのため金をかせごうとします。そこに一つの盲点があります。つまり多くのことで思いわずらい、心を取り乱すばかりでなく、病気になったり、ごたごたしてきたりします。
 皆さん無くてならないものは、多くはありません。その無くてならない「ただ一つの」ものに気がつかなければなりません。「まず神の国と神の義を求めなさい、そうすればすべてこれらのものは添えて与えられるでしょう」  (マタイ6:33)
 多いというのは欲からきます。その欲に悪魔がとりつきます。その結果は、取り乱し、心を患わせる結果となります。そして面白いことに、最初得ようと思って始めたお金もえられないどころか、大損するのがおちです。最後にイエス・キリストは言われます、「マリヤは良い方を選びました」と。つまり選択の第一歩において、マルタは間違っていました。御言葉を先にすべきだったのです。「御言葉をさしおいて食卓につかえてはなりません」  (使徒行伝6:2)
 今ここでもう一度思い出してください。イエス・キリストは十字架に向かっている途中だということを。その十字架主の、唯一の食卓は、主御自身のからだと血が食べ物(すなわち自己献身)であるということを。さらにすべてのことに時があります(伝道の書3:1-9)。働くに時があります。聞くに時があります。行動するに時があります。しかし、沈黙し、耳を傾ける時があります。これを取り違えないようにしましょう。
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