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10月4日(日)「友なるイエス 」説教要旨
  友なるイエス
  「友なるイエス」はヨハネにあります。イエス・キリストが、私の友人だと言うのです。パウロは「主イエス・キリスト」ですが、しかし、「主イエス」という呼び方は、福音書にも、パウロ以外にも、新約聖書全体にわたってあります。しかし、「友」という呼び方は、ヨハネにしかありません。
  「友」は、日本語では「共に」からくるのでしょう。「共に」ということは、私たちの信仰の中心です。なぜなら、神は永遠の昔、創造のもっと前から、「インマヌエル神われらと共に」を決意した愛なる神であるからです。神は父・子・霊でいます。これがひとつひとつ独自性をもちつつ、「共に」あるのです。これが三位一体の神です。別な言い方をすれば、「神われらと共に」は、愛なる神の本質的姿なのです。だから、私たちもまた、「共に」の姿で、つまり愛のかたちで造られたのです。
  したがって私たちが、その生活の中で「共に」を現していれば、それは愛なる三位一体の神の写し絵になるのです。 男と女が交わります、そこに神の「共に」があります。愛する時、私たちはとかく一方的になりがちではありませんか。「私が愛している」、「こんなに愛しているのに」とか、「愛は惜しみなく奪う」と。それは「共に」を失った愛の姿です。神の愛は、本来「共に」であります。私が愛し、相手が愛する、そこに愛が成り立つのです。つまり愛こそ「共に」の生きた姿にほかなりません。そこにはクリスマスの使信が鳴り響きます。「インマヌエル神われらと共に」。あのベツレヘムの馬小屋に、神われらと「共に」が実現しました。今日の聖書の箇所では、「あなたがたは、私の友である」(ヨハネ15:14)。こう言ってくださる「友なるイエス」の姿は、賛美歌312にあります。「
  いつくしみ深き友なるイエスは、罪とが憂いを、取り去りたもう。こころの嘆きを包まず述べて、などかわおろさぬ負える重荷を」(一番)、まず「友なるイエス」は、罪ととがと憂いを取り去ってくださいます。だから、私たち自身の「こころの嘆きを包まず述べて、重荷をおろそうではないか」と言うのです。イエスは別な箇所で「すべて労する者、重荷を負う者は、わたしに来れ、わたしの荷は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われました(マタイ11:28)。
  「友なるイエス」は、私たちと共にいてくださいます。この賛美歌の二番は、「いつくしみ深き友なるイエスは、われらの弱きを知りて憐れむ。悩み悲しみに沈める時も、祈りに答えて、慰めたまわん」。
  「友なるイエス」は、私たちの弱さを知っておられる。だから「悩み悲しみに沈める時も、祈りに答えて」。そこで私たちにもすることがあります。祈ることです。祈りには必ず応答があります。つまり、イエスとの共には、祈りの「共に」でもあります。生活の中で、祈らない人は、このイエスと「共に」を経験しないでしょう。
  三番は、「いつくしみ深き友なるイエスは、かわらぬ愛もて導きたもう。世の友我らを捨て去る時も、祈りに答えて、いたわりたまわん」とあります。ここには人間的友との断絶があります。私たちの友情は、はかないものです。絶えず断絶にさらされています。しかし、その断絶の中で、ただ一人私たちを捨てないお方がいらしゃいます。それが「友なるイエス」です。このイエスの「共に」がなければ、私たちの「共に」はいかにあやふいことでしょう。
  さて私たちの「共に」は、新しい「共に」を生みます。それは子供ができることです。
  ここでは、私たちは一方的になりがちです。それは親が優位に立つからです。しかし、神の共には、優位に立つ神が、低くなってくださったのです。私たちも「共に」を実現する時には、低くならねばなりません。
  大学の先生が幼稚園で話す時、大学の講義のように話したら、幼児にはちんぷんかんぷんでしょう。その時、低くならなくてはならないのです。今日のヨハネの箇所では、イエスは、「人がその友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない」と言います。そんなことができるのでしょうか。しかし、それはイエスが、あの十字架の上で成し遂げられたのです。私たちの「共に」は、このイエスの命懸けの「共に」に支えられているのです。そして最初に帰るならば、「インマヌエル神われらと共に」、この永遠の神の愛の決断があるからこそ、すべての「共に」が成り立つのです。
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