10月18日(日)「シンボル・比喩」説教要旨

   詩編78:1-4 ヨハネ16:25-28

  ゲーテは、「すべてうつろい行くものは比喩にすぎざるのみ」と言いました。またキリストは、神の国のことを比喩で語りました。「比喩」とは、「しるし、シンボル、類比、写し絵、例え話」と言ってもよいです。イエスは神の国の福音を「身近かに具体的に」語ったのです。おそらく天国は永遠の世界で、たとえでしか語れないのでしょう。

  またうつろい行く世界は、永遠の世界の比喩であるとしたら、私たちの生きてついに死に至るこの生涯の出来事も、何か「永遠なもの」を比喩的に現していると言えないででしょうか。
  パウロは言いました、
「私たちは今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかし、その時[神の国の時]には、顔と顔とを合わせて見るであろう。私の知るところは、今は一部分にすぎない。しかし、その時には、私が完全に知られているように、完全に知るであろう。このようにいつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは愛である」
  (Ⅰコリント13:12-13)
すると、永遠に存続するものは、信仰・希望・愛の三つで、他のものは「過ぎ行くもの」です。  

  仏教では、すべては過ぎて行く、一つとして常なるものはない、「諸行無常」と申します。仏教には、「永遠の世界」はありません。ただその「過ぎ行く現実」をそのまま受け入れる「悟り」が大切なのです。  
  しかし、キリスト教には、「永遠なるもの」があります。それは「信仰・希望・愛」であります。しかも、この三つはただ抽象的概念としてあるのはありません。その三つを体現しているお方があるのです。それはイエス・キリストであり、またキリストを遣わした永遠なる神です。「信仰・希望・愛」が、永遠だとするなら、私たちは、それをこの地上で体現しなければなりません。それが信仰の生涯にほかなりません。だから、すべて過ぎ行くものは、信仰・希望・愛の比喩なのです。  

  比喩とか類比というものは、その源があります。「神は愛であり、希望であります」、としたらそれを信じる私たちの信仰も永遠であります。イエスは弟子たちに、  
「わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話して聞かせる時が来るであろう。その日には、あなたがたは、わたしの名によって求めるであろう」
  (ヨハネ16:25-26)  
と言いました。私たちの地上の生活が、この永遠なものの比喩ですから、キリストは比喩で神の国のことを語ったのです。    

  では神の国とは何でしょうか、それは一例をあげれば、タラントのたとえです(マタイ25:14-30)。一人一人が神からタラントを与えられています。それを十全に働かせる、そこに神の国があるという意味です。次に、よいサマリア人のたとえでは、「あなたも行って同じようにしなさい」。それは、国籍も違う、民族も違う、言葉も宗教も違う、その枠を、国境を越えている愛であります(ルカ10:25-37)。その時、あなたは神の国の比喩となりえます。夜中に腹ペこできた友人にやるパン三つがない、そこで友の扉を叩く、それは神の扉でした(ルカ11:1-8)。この熱心な祈りに、愛もある信仰もあるし、希望もあります。イエス・キリストは神の国の比喩を語る時、実にそれは私たち人間の行為を語っていました。  

  カール・バルトは、それを「比喩可能性」と言います。あなたは神の国の比喩となれる、それは可能だ、「あなたは、その信仰において、イエスの示した神の国の比喩となりうる」、それが「比喩可能性」です。しかし、また「比喩必要性」もあります。あなたはそこで、よいサマリア人になる必要がある。神の国の比喩となることが必要である。それが「比喩必要性」です。  
  すなわち。私たちはだいそれた偉大なことをする必要はありません。大切なのは、神の国の比喩となる必要性です。比喩というのは実物を映した鏡のようなものです。池にうつった月の影です。風が来れば、ちぢに乱れるでしょう。でも、比喩でよいのなら、池にうつった月の影は、本物の月ではないけれども、本物の月を映しています、指し示しています。  
  私たちのすることは、バプテスマのヨハネの指でよいのです。つまりキリストの愛と希望を指す「指」でよいのです、「比喩可能性」です。しかし、遊んでいてはいけません、ぼんゃりしていてはいけません。「比喩必要性」があります。あなたは神の国の比喩であることが可能なのだから、神の国の比喩であもある必要性があります。

  バルトは言いました。「罪人である私たちは、罪人を教育することはできない。しかし、キリストによって罪ゆるされた者は、そのキリストの愛を指し示すことはできる」。それがバルトの教育論です。比喩となることはできるのです。
  認知症の問題も、この応用問題です。私たちはどんなおかしなことを聞いても、その人を受け入れることはできます。その行為は、イエス・キリストの受け入れの比喩となりうる。信仰義認の比喩になれるのです。
「キリストも私たちを受け入れてくださったように、私たちもまた互いに受け入れあって神の栄光を表しなさい」
  (ローマ15:7)
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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