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10月25日(日)「すべての思い煩いを神にゆだねなさい」説教要旨
Ⅰペテロ5:6-11
「すべての思い煩いを神にゆだねよ」。この「ゆだねよ」という言葉は、ただ「おまかせする」と言った弱い言葉ではありません。「神に向かって投げかけなさい」という強い意味です。
ちょうど雪国の雪下ろしで、屋根の雪を下に放り投げるように、「思い煩い」を、神様の方に投げ返すのです。くよくよと思い煩いがある時、人は何とか思い煩わないでいられたらと思いませんか。しかし、その時、思い煩いを神に向かって投げるのです。
どうして?それは「神があなたがたのために思い煩ってくださるからです」。それは「思い煩うこと」は、神様の領分なのです。
人間の領分というものがあります。それは仕事をすることです。しかし、仕事にともなう思い煩いは、人間の領分ではなく、神様の領分です。
農夫が畑をたがやし、種をまきます、それは人間の領分です。しかし、家に帰ってから、今日まいた種は生えるかな、嵐でも来るのでないかと心配することは、人間の領分ではありません。それは神の領分です。あなたは神の領分にまで押し入って、心配することはありません。「神があなたがたのために思い煩ってくださる」。余計な心配をするなら、人間のすべき分がおろそかになります。
しかも、「すべての思い煩い」です。一切です。私たちは思い煩いの特殊領域を作ります。誰でも、自分の苦労はとても大変だと思います。「あなたには私の苦労は分かりません」と言います。
しかし、それで本当に解決するでしょうか。しません。その前に「神の力強い御手のもとに、自分を低くしなさい」とあります。私たちは、高くなっているのです。思い煩いは傲慢です。それは「神の力強い御手」を忘れて、自分で解決しようとして、自分を高くしているからです。
「神の力強い御手のもとに、自分を低くしなさい」。
「そうすれば、時に及んで、神はあなたがたを高くしてくださいます」
シーソーゲームを思い出してください。高くなったり低くなったりします。しかし、高い時も低い時も、変わらないのは、心棒の位置です。あの変わらない心棒があるから、シーソーは高くなったり、低くなったりします。「神の力強い御手の」それが心棒です。それが、あなたを常に支えています。
ただ私たちは、何もしないで、神にまかせているだけではありません。
「身を慎んで、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと捜し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」
悪魔がいます、本当に悪魔などいるのでしょうか。
第一に、悪魔は、自我、傲慢、欲望、我執といったものを餌にします。自分しか考えない人は、悪魔のとりこになりやすいのです。悪魔は、二つのレンズをもっていて、あなたの苦しみに凸レンズをあてて、「その苦しみは大きいよ」と言います。
次に悪魔は、神様に凹レンズをあてます。「あなたの神は小さいよ」と言います。それが悪魔です。そこであなたは不安になります。こういう悪魔に抵抗しなさい。「あなたの神は小さすぎます」。それが信仰の言葉です。悪魔を撃退する言葉です。
「あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じような苦しみにあっています」。私たちは、自分の思い煩いだけではありません。他者の兄弟の、友達の苦しみにかかわります。
人から相談を受けます。しかし、たいがい私たちは、その兄弟の苦しみを聞いても助けてあげることができないのです。しかし、原理は同じです。自分の思い煩いを克服する道と、他者の苦しみを克服する道は、全く同じです。
「あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間、苦しんだあなたがたを完全なものとし、強め、力つけ、ゆらぐことのないようにしてくださいます」
まず第一に、「神ご自身が」です。あなたや相手ではありません。そこで力のあるのは、聞くことの奉仕、つまり、「力強い神の御手のもとに自分を低くすること」が大切なのです。
第二に、その苦しみは、「しばらく」と書いてあります。苦しみの中にある人は、それを随分長く感じます。楽しいことは、あっと言う間に過ぎ、苦しいことは、何時まで続くかと考えます。しかし、それは神の目には「しばらく」です。ヨハネ黙示録に「あなたは十日の間、苦しみを受ける」(2:10)とあります。
十一日目には、あなたは解決の兆しを見るでしょう。十日と聖書にあるのは、きっかり十日という意味ではありません。苦難には、限りがあることです。悪魔の働きは、どんなにすごくても、永遠ではありません。永遠は神のみです。永遠なる悪魔などこの世にありません。火事は、自分の火で、燃える材料をなめ尽くして行きます。最後は全部なめ尽くして鎮火するでしょう。そのように永遠の火事はなく、永遠の悪魔もありません。必ず限り、限界があります。
イエス・キリストは別な箇所で、
「明日のことを思い煩うな。明日は明日自ら思い煩うわん。一日の苦労は、その日一日で十分である」 (マタイ6:34) と言っておられます。「一日の苦労」とは、ものを作り、汗を流し、労苦する製作の苦労です。しかし、「明日の苦労」は、現実の苦労ではありません。架空のものです。自分の心や頭が作り出した非現実なものに過ぎません。それは必要ありません。それは神がしてくださる分野です。
神はあなたよりも賢いのです。「神様に任しておけないのです」と言った人がいます。その人は、「神の愚かさは、人よりも賢く、神の弱さは、人よりも強い」と言われることを思い出しましょう(Ⅰコリント1:25)。 「人には多くの計画(かんがえ)あり、されど神の旨のみ立つべし」(箴言19:21)とあります。
人間の計画は多くあります。あれもこれもと心配になってきます。ギリシア語の「思い煩い(メリムナ)」は、「メリゾー(分かれる)」から来ています。多くのことがあって、心が分かれるのです、それが心配です。「人には多くの考え計画があります」。しかし、「神のみ旨ねは一つです」。その一つが分かれば、心配はなくなるでしょう。それは信頼することです。見ないで、信じることです。信じることが先にあって、知ることは後に来ます。
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