11月29日(日)「キリストを待つ」説教要旨

            ルカ7:18-23

    「待つ」とは、極めて宗教的なことで、教会暦は待降節から始まります。
   この世のクリスマスには、この待降節がありません。宗教に高貴な「待つ」ことがなく、すぐクリスマスにはいります。使徒行伝の初めには、弟子たちが、
「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」
と聞いた時、復活のイエスは、
「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。ただ聖霊があなたがたに下る時、あなたがたは力を受けて、地の果てまで私の証人となるであろう」
と答えました。
   「いつ」、それは「父なる神のみ知る」、しかし、聖霊があなたがたに下る時が、必ず来るのです。待つ時、弟子たちは「祈って待ちました」。祈りの力を忘れてはなりません。祈っていて、あまり宗教に意味をもたなかった人が俄然、礼拝に出ることが起こります。伝道とは、こういう長い祈りの連続です。伝道がしにくい状況はあっても、祈りのできない状況はありません。   

    私たちは救い主を待ちます。ルカ7:18で、バプテスマのヨハネは「来るべき方はあなたですか」。それとも「ほかに待つべきでしょうか」と聞きました。彼は牢屋の中で苦しみました。一体イエスは救い主なのだろうか、一向神の国は、やってこない、イエスは、火でもって悪い奴を焼き払うわけでもない。ここにはヨハネの疑いが記されています。  
   彼は死を待ち、孤独に耐えなけれなりません。もちろん私たちは牢に入ることは、めったにないでしょう。しかし、病気はどうでしょう。個室にいるいまわの際の人を訪ねました。個室で一人、悶々と苦しむことはないでしょうか。その中で、人間に最後に襲ってくるもの、それは死と孤独であります。   今バプテスマのヨハネほどの人も、この問題で苦しんだのです。    

    私たちは、何の疑問も疑いもない、少しも動揺しない信仰というものを考えてはなりません。動揺しないのは、生きていないものです。汽車でも船でも動くものは、揺れるではありませんか。生きた信仰は動揺します。ただ人間の真の苦悩は、死や孤独ではありません。その中で解決の希望がないことこそ、苦悩の最たるものです。疑いこそが、苦悩の最大のものです。真の信仰は、この最大の敵と背中合わせにいるのです。そこで「来るべき救い主は、あなたなのですか」、「誰ですか」と問うたのです。  
   人間の究極の問題は、ついに「誰」という課題に突き当たります。つまり人間は理念や、観念では救われないのです。水に溺れている人は、「誰か助けてくれ」と問います。浮袋が人を救うのではありません。「あなたがたは私を誰というか」という問いは、イエスが弟子たちに問われた問いです。   

    これは、私たちに、一つの決断を迫っています。私たち、一人一人に「あなたはどうなのか」、「私をどう思っているのか」と、告白をうながしているのです。ふつう哲学者や思想家は、「あなたがたは私を誰と言うか」とは聞きません。その教えが問題なのであって、その人そのもの、「私は誰 ?」ということは、問題ではありません。  
   この問いは、イエスただ一人のみにあてはまるのです。嵐の湖で、弟子たちが、右往左往していた時に、イエスは、「私である。恐れることはない」と言って、嵐の中に立ってくださる主なのです。  

    そして、この「誰」という問いは、一つ一つ私自身にはねかえってきます。「私自身は誰なのだろう」、この問いであります。「キリストが誰なのか」という問いと、「私は誰なのか」という問いとは、結びついているのです。それは、私自身、真の人間になるという、信仰の課題とつながっているからです。人生における疑いは、信仰における疑問は、すべてこの誰に行き着くための乗り物なのです。イエス・キリストという終着駅に到達するためには、だれでもみな、この疑いという乗り物にのらなくてはなりません。そこで動揺が起こります。しかし、動揺しつつ、汽車は進んでゆきます。  

    イエスはこの問いに答えました。  
「行って、あなたがたの見聞きしたことを、ヨハネに伝えなさい。盲人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病人はきよめられ、耳の聞こえない人は聞き、死人は生きかえり、貧しい人びとは福音を聞かせられています。私につまずかなければ、その人は、さいわいです」
  ヨハネは、一ぺんに救いが来ることを期待していました。一度に悪が滅ぼされることを夢見ていました。世の中には潔癖症というのがあります。しかし、潔癖症は信仰ではありません。イエスは、私たちを一歩一歩と導かれます、しかし、そこ途中にもイエス・キリストがおられます。ただそのお方は、「私がそれである」とはお答えにならないのです。どうしてでしょう。その答えをこちら側に期待しておられるのです。  
   あの有名な「世の光」という絵は、イエス・キリストが、光を掲げて、私たちの扉をたたいているところです。そこに取っ手がありません。父は子にこたえます、「それは私たちの側についているのだ」と。ただ一つこのたたく音をきいて、戸を開くなら、彼は私たちといっしょに食をともにするでしょう。すべてこのお方につまずかない人は幸いです(黙示録三・二〇)。待降節とは、この方を待つ時であります。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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