12月27日(日)「  夜明け前   」説教要旨

            イザヤ21:11-12 黙示録3:1-6

  生には、朝、昼、夜があります。朝は仕事の開始の時で、希望に燃えている時です。
  しかし、夜明け前は一番暗いとも言われます。また生には昼もあります。明るい時、仕事がうまくいって活動する時です。しかし、夜が来ます。

  イザヤが言った「今は夜の何時ですか」は、今日、「時代は暗い、何と世の中は変わってしまったのか。こんなことは昔はなかった」と嘆くのと同じです。それは、絶望の中で朝を待っている声とも取れます。
  しかし、次に「朝も来るし、夜も来る」と言っており、時の姿を悟っている人間の声にも見えます。それは夜も来るが、また朝も来る、どんな時も、目覚めて祈っている人の姿です。生は不思議です。駄目だと思っている時、案外、成功が近かったり、また絶望の底で、希望の光をつかんで立ち上がったり、つまり、「朝も来るし、夜も来る」のです。それは信仰の言葉ではないでしょうか。
  その時、聞こえてくるのは、「あなた今、ここで最善をしなさい。あとは神の御旨にまかせなさい」。しかし、最善をしないで、神の御旨にまかせると、必ず「今は夜の何時ですか」という問いがでてきます。その問いからは何の積極的なものも出てきません。出てくるのは嘆息だけです。  

  では新約聖書の黙示録三章では、生をどのように描いているでしょうか。 
「あなたは生きているという名をもっていますが、死人です」
 
  先ほどのイザヤの人は、世の中をただ眺め見ていました。語る人は評論家で批評家でした。しかし、その批評家であるあなたの生に切り込んでくるのが、このヨハネ黙示録の言葉です。それは「生きている」とは、名ばかりで、「息はしているが」、生命はない。本当には活きていない。  
  漢字には、「生」と共に、「活」の活きるがあります。いずれも「いきている」のですが、精神的に死んでいる生は、「生」であっても、「活」ではありません。そして面白いことですが、「生活」という言葉は両方を含みます。  

  ではあなたはどうですか。「ただ漫然と生きている」のですか、それとも「本当に活きている」のですか。肉体的には生きていても、精神的には死んでいる生もあります。  
  ここには   
「私はあなたの業を知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。目を覚ましていて、死にかけている残りの者たちを力つけなさい」
とあります。「目覚めよ」と呼びかけられるなら、まだ完全に死んではいないでしょう。死は、まだ最終的力をもってはいないのです。 
「そして主が、一つの使命を与えているかぎり、主は、またそのための力を与えてくださいます」
ベンゲルという聖書注解者は、こう言っています、「主イエスが、人に何かをお命じになる時には、そのご命令は、それと共にこれを行う力をともなっているのであって、それはちょうど、イエスが中風の者に『立て』と言われ、目の見えない人に、『見よ』と言われたのと同じです」。  

  ここで「目覚めよ」と言われていることも、そうです。ただその「目覚めよ」との御言葉を実践するには、次のことが大切です。 
「私はあなたの業が、神のみ前に完全だとは見ていません。だから、あなたがどのようにして受けたか、また聞いたかを思い起こして、それを守り通し、かつ悔い改めなさい」
私たちは「目覚める」というと、自分の力で立ち上がることを連想します。    
  しかし、ここでは第一に「受け取ったこと」を思い起こすことです。想起です。それは信仰の初めに帰ることです。  

  たとえば宗教改革とは、実は、聖書の初めに帰る復帰の運動でした。ルター派の監督は言いました。「信仰は、神の定められた始まりから出発したものですが、その始まりに帰ってゆくことほど、謙遜でしかも力強い事実は存在しません。このことは歴史化した信心や硬化した正統主義や、人間的・教会的保守主義とは、全く反対のものです。教会の信仰や愛を生命あるものとするのは、教会歴史を回想することではなく、むしろ『神がわたしのためになさったこと』を想起することなのです」。    

  しかし、私たちのまわりには、何とこのように形式化し、硬化した保守主義や、正統主義が多く見られることでしょう。回想と想起とは違うのです。回想は過去に捕らわれ、「昔はよかったな」と懐古趣味に陥っています。  
  想起とは、キリストが「わが記念としてこれを行え」と言っているように、新しい行動に移すにあたって、原点を思い起こしつつ前進することで、
  この想起の方は、過去よりも将来に重点があります、その意味で、過去が原点として重要なのです。原点を忘れた、前進は危うく、前進のない原点は、過去の遺物でしかないでしょう。硬化した正統主義とは、過去の遺物になった教えです。生命がないのです。   

  「夜明け前は一番くらい」という言葉は、ある意味で、信仰の真理を言い表しています。なぜなら、一番暗い絶望の時こそ、信仰が必要であるから。アブラハムは、   
「望みえないのに、なおも望みつつ信じた」(ローマ4:18)
とあります。直訳すると、「彼は望みに逆らって、望みに基づいて信じた」。「望みに逆らって」、希望が何も見えないのに、なおも「希望に基づいて」、イエス・キリストの死人の復活のように、そこに希望を見いだして信じたのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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