1月10日(日)「過去は変えられる」説教要旨

           聖句
「あなたがたはさきの事を思い出してはならない。また、いにしえのことを考えてはならない。  見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起こる、あなたがたはそれを知らないのか。わ  たしは荒野に道をもうけ、さばくに川を流れさせる」
  (イザヤ43:18-19) 

   「息子は父に言った『父よ、私は天に対しても、あなたに向かっても、罪を犯しました。もう   あなたの息子と呼ばれる資格はありません』。しかし、父は僕たちに言いつけた、『さあ早   く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。   また肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。この息子が生き返   り、いなくなっていたのに見つかったのだから』」
  (ルカ15:21-24)。


   西田幾多郎という哲学者はこう言いました。「ギリシア人の考え方によると、一度起こってしまった過去は、変えることができない。しかし、キリスト教においては、その過去が変えられる。キリストの救いにあずかる人は、悔い改めて新しい人になれると言う」。まさに世間の考え方と聖書の信仰とは、これ程違います。
   あなたは過去を悔やむ必要はありません。キリストにおいては過去は変えられるからです。パウロは
「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救いを得させる悔い改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる」
  (Ⅱコリント7:10)
と言っています。イザヤの預言によれば、過去は変わり、荒野に道が設けられ、さばくに川が流れるのです。神が全く新しいことをするからです。私の経験では性格も変わると思います。自分が変わろうという決意をもつこと、そして神に助けを祈ることが必要です。 

   ルカ福音書一五章のたとえは、「放蕩息子のたとえ」と言われていますが、実は、放蕩息子だけではなく、弟の帰還を喜ばない兄息子もいます。では「二人の兄弟のたとえ」でしょうか。しかし、このたとえの中心は、弟息子でも兄息子でもありません。実に、このたとえの中心は、父親です。神です。
  父親の言葉は、喜びに満ちています。それが福音なのです。福音とは「喜びの訪れ」だからです。その父親の喜びとは、「食べて、楽しもうではないか。この息子が死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」(24節)に表れています。

  父親の関心は、失われた財産ではありません。死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった弟息子の「魂」です。魂を中心とする時、過去は取り返しがつかないどころか、変えられるのです。
  私たちには、財産を中心にしている時、見失われているものがあります。現代社会の見失っていたもの、それは一個の人間のもつ貴い「魂」です。現代社会はまさに、この弟息子です。財産に目がくらんで、父親の大きな愛が目に入りません。放蕩無頼、自己中心、利己主義、それが現代社会の傾向です。
  現代の目には、父なる神、すべてのもの根源なる父には目をくれず、その創造者がくださる「物」に目をやり、それを人より多く欲しがるのです。さらにその財産を、父から遠く離れたところで、放蕩に身を持ち崩したのも、まさに現代の縮図です。

   すると現代社会の見失っているものは、私たちの中心であるべき神です。このたとえで一番よくしゃべっているのも父です。ですから、このたとえは、「このあなたの中心である神に帰りなさい」と教えているのです。
  「悔い改め」とは、心をひるがえし、転換して、帰ることです。どこへ、私たちすべての者の中心にいます神へ。ですから、「神に帰る、自己の中心に帰る」ことは、本当の自己を発見することでもあります。

  兄息子は、非常に道徳的ですが、依然として、律法に固執しています。現代、律法的宗教、律法的なオカルト宗教がはやっています。まさに兄息子です。それは新しい宗教だ言っても、心は依然として古いのです。
  そこに必要なのは、真の中心である父への帰還です。バルトの「悔い改め」という説教には、神はどこにいますか、「神は私たちの中心にいます。あなたの最も近くにいます。この最も近い神に気づくことが、悔い改めです」とあります。神は今泣いている母親のところに、現在悩んでいる職業人のところに、その中にいますのです。「神はわれらの避けどころ、また力、悩める時のいと近き助けであります」(詩編46:2-5)

  では放蕩息子は、自分の望んでいた財産を増やすことができたでしょうか。反対です。すべての失ったのです。人は神以外のものに捕らわれると、そのものの奴隷になります。世間は、金と物質、それが私たちを奴隷にします。リーマンショックとは何ですか。アメリカ経済が、まさに賭け事(ギャンブル)資本主義になったのです。物質中心の世界は、いつかどこかでゆきずまりになります。しかし、今私たちはこのことを変えることができます。

  この放蕩息子は、確かに自分で、父のもとに帰ったように見えます。しかし、それは外見だけです。彼がまだ遠く離れていたのに、父は彼を認め、哀れに思って走りより、抱いて接吻したとあります。父の愛は、私たちの悔い改めに先立ちます。
  あなたは悔い改めを必要としています。あなたのために罪のゆるしを祈られる神を必要としています。それこそ「最悪を最善に変えたもう神」であります。神はあなたをあがない、ぼろをまとった弟息子に、最上の着物を用意してくださいます。「いや私には罪などない」と言うのですか。その時、あなたはいつの間にか、兄息子になっています。

  しかし、皆さん、「確かに性格は変わる。行動も変わる。状況も変わる。しかし、過去に起こった出来事そのものは変わらないではないか」と言うかも知れません。
「彼らの行っていることは、口にするだに恥ずかしいことです。しかし、光に照らされる時、すべては明かになります。明かにされたものはすべて皆、光となるのです。眠っている者よ、起きなさい。死人の中から立ち上がりなさい。そうすればキリストが、あなたを照らすでしょう」
  (エペソ5:12-14)
出来事はそのものは、かって重病をした、ガンを患った、その事実は変わらないかも知れません。しかし、イエス・キリストの光に照らされる時、その意味は変わります。病気の過去はつらかった、心配だ、しかし、恵みによって、その意味は変わります。それによって多くのことを学ぶました、人の病が理解できる、それよりもなお、上を向くことができ、神を発見し信仰を学んだのです。中心にあるお方を見いだしたのです
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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