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1月31日(日)「ユダの存在」説教要旨
  聖句
旧約 「偽りのはかりは主に憎まれ、正しいふんどうは彼に喜ばれる。高ぶりが 来れば、 恥もまた来る。へりくだる者には知恵がある。正しい者の誠実はその人を導き、不真実な者のよ こしまはその人を滅ぼす」  (箴言11:1-3)
新約 「さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼ら はみもとに来た。そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに 宣教につかわし、また悪霊を押し出す権威を持たせるためであった。こうして、この十二人をお 立てになった。
 そしてシモンにペテロという名をつけ、またゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄 弟ヨハネ・・・それからイスカリオテのユダ、このユダがイエスを裏切ったのである」  (マルコ3:13-19
  十二使徒の中に、イエスを裏切ったユダがいることは不可解な謎です。しかし、この謎を解く時、驚くほど信仰の恵みが出てくる泉でもあるのです。しかし、ではほかの十二使徒を見てみましょう。
 その筆頭であるペテロは、イエスが捕らわれた時、「あなたはあの人の弟子だ」と言われると、「私はその人を知らない」と言ったのです。これはイエスに対する裏切り行為でなくて何でしょう。ここにはキリスト者の罪、すなわち、神に選ばれた者の罪が描かれています。旧約聖書を読む時、イスラエルは神の選びの民なのに、一向選びの民らしくなく、偶像を拝んだり、神に背いたりします。その結果、さばきに会います。預言者が現れて、その罪を糾弾してます。このことでキリスト者は、誇ることができるでしょうか。
 聖書の中の二つ聖餐と洗足にユダも加えられています。ユダは最後の晩餐にもあずかっています。イエスは、はっきりとユダにもご自身のからだなるパンとあがないの契約のしるしであるブドウ酒を与えます。
 また洗足の記事です。イエスは「夕食の席から立って、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い始めました」。そこにはユダもいたのです。ユダの汚れた足も洗いたもうたのです。
 次に十字架上の犯罪人、その犯罪人は、悪いことをして十字架につけられた者ですが、「御国に入る時、この私を覚えていてください」と言った時、イエスは、「今日あなたは、私と共にパラダイスにいる」とおっしゃいました。
 しかし、ひとは言うでしょう。この犯罪人の罪は、一般的罪である。ユダの罪は、イエスの十字架に対してした犯罪である。本質的に違う。それにこの十字架の人は、選ばれた弟子、使徒ではない。ユダはイエスに選ばれた使徒である。
 それならパウロはどうでしょう。パウロの罪は、まさにイエス・キリストに対してなされた罪でした。キリストを信じる人びとを捕まえては、牢屋に入れました。キリスト教迫害の急先鋒です。しかも、彼は使徒に加えられました。この事実をどう考えますか。
 ユダとパウロは、対照的です。ユダの場合、選びが先、そして選ばれた者としてイエスを裏切りました。パウロは逆に、イエスへの裏切りが先にあります。その者を、神はキリストの使徒に選ばれたのです。行為も選びも、順序は逆ですが、同じです。
 パウロは、あれほど迫害の悪を重ねたのに、どうして使徒とされたのでしょうか。答えは、「神の恵み」です。「ただ神の恵みのみ」と言ってもよいでしょう。そこでパウロは自分を罪人のかしらだと言っています(Ⅰテモテ1:15)。パウロが恵みの器とされ、その手紙が聖書に多く入っているとすれば、パウロはその罪をゆるされたのです。
 しかし、ユダは違うのでしょうか。ユダは、ゼベダイの子らのように、イエスが王となる時、その右左に座る者となろうとしたのに、イエスは、多くの群衆の歓呼に迎えられながら、一向に王国を建設なさらないどころか、十字架を予言しておられる。これは少し違ったと思ったのでしょう。
 しかし、イエスがユダを選ばれた事実をどう考えますか。選びとは、棄却、見捨てを含んでいるのです。しかし、同時に棄却、見捨ては選びの中にあるのです。ユダはそのことの証人です。
 一人一人選ばれています。そこでキリスト者となりました。そこには、棄却、見捨ても含まれ、信仰の中に深い罪が含まれているのです。それは神の選び、キリストの選びを尊厳ある貴いものにします。
 ではユダは救われるのか、救いに三通りあります。1.天上での救い 2.この地上での救い そして3.地獄での救いです。地獄での救いがあるのか。それはⅠペテロ3:19にあります。
「こうしてキリストは獄(地獄)に捕らわれている霊のところに下って行き宣べ伝えることをされた。それはイエス・キリストの復活による」
 「ユダは最後の言葉をもたないのです」(バルト)。そのもう一つ向う側があります。それは『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の言葉が示しています。
 「心底から後悔している者を神さまがおゆるしにならぬほど、大きな罪はこの地上にはないし、あるはずもないのだ。それに、限りない神の愛をすっかり使い果たしてしまうほど、大きな罪など、人間が犯せるはずもないのだしね。それとも、神の愛を凌駕しうるほどの罪が存在しうるとでもいうのかな?」。
 「愛というのは、全世界を買い取れるほど限りなく尊い宝物で、自分の罪ばかりか、他人の罪まで償えるのだからの。行きなさい。恐れることはないのだよ」。
 それほど恵みは大きい。救いには見捨てもある。しかし、イエス・キリストご自身、見捨てられる者となられた。そして同時に救うお方でもあられた。ユダはこのイエス・キリストの見捨てられる者を代表しいているのです。パウロはそれに反し、信仰による義を代表しいているのです。最後の言葉はイエス・キリストがもっています。私たちはユダを通しても、主の十字架を仰がなければなりません。「わが神、わが神、なんぞわれを見捨てたまいし」と、選びは、見捨てをも含んでいるゆえに、この選びは真剣な出来事なのだということを、今、改めて知りましょう。そして神に栄光を帰しましょう。
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