2月21日(日)「ニヒリズムの克服」説教要旨

           聖句
旧約 「わたしは心をつくし知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風 を捕らえるようなものであると悟った。それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂い を増すからである。わたしは自分の心に言った、『さあ快楽をもって、おまえを試みよう。おま えは愉快に過ごすがよい』と。しかし、これもまた空であった」
  (伝道の書1:17-2:1)

  新約 「被造物は、実に切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物 が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方によるのであり、かつ、被造 物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されている からである。実に被造物全体が、今に到るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていること を、私たちは知っている、それだけではなく、御霊の最初の実を持っている私たち自身も、心のうちでうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」
  (ローマ8:19-23)


   ニヒリズム(虚無主義)とは、すべてを否定し、一切は無意味だと考えることです。しかし、「無」には、よい意味の無と悪いものとがあります。「キリストがご自分を無にして僕のかたちをとった」(ピリピ2:7)その「無」は、善い意味です。しかし、ニヒリズムの虚無は、悪い無です。そして今日、この悪いニヒルな空気が世の中を支配しているように見えます。すべてが便利で効率よく、何でも手に入る世の中は、テクノクラシー(技術支配)の時代です。ニヒリズムはこのテクノクラシーの申し子です。   

   便利で安くて簡単なことのみに価値を認める効率社会は、精神的なことをあまり教えません。いきおい無神的になり、ニヒリズムに走ります。先年秋葉原で起こった、無差別殺害事件は、このようなニヒリズムの現れです。この時間的世界だけ、この世だけなら、そして永遠なるものが何もないなら、その社会はニヒリズムになるでしょう。      

  では信仰から見て、このニヒリズムはどう考えられるのでしょうか。アウグスチヌスは言いました、「神は虚無から世界を創造した。しかし、愛によって創造した。もし人が、上に神の愛を求めれば、虚無を克服でき、反対に下に落ちて神の愛を離れれば、虚無におちいる」。ということは、信仰から見ても、すぐそこに虚無の深淵が口を開けているのではないでしょうか。聖書は、    
「被造物は、実に切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方によるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである」
と記しています。   

   皆さん、自分の胸に手をあてて考えてください。皆さんの背後には何がありますか。生活があります。しかし、その生活のもう一つ背後には何がありますか。「お金、仕事、運命、名誉、見栄、欲望」等、いろいろなものがあります。そのお金、物質みな、よく考えれば、使えばなくなるもの、むなしいものではないでしょうか。      

   しかし、聖書には、「被造物は虚無に服した」とあります。さらにそこに被造物の「うめき」があります。しかし、よく読むと、「うめき」は三つあります。「「全被造物のうめき」、「私たちのうめき」、そして「「聖霊の言葉に表し得ないうめき」です(26節)。十字架は、このようなうめきたもう神の連帯を表します。特に聖霊は交わりの中心です。この神の連帯、御霊の連帯を信じる時、「苦難とは個人的失敗でも、社会的矛盾や運命でもありません。それはこの御霊の連帯を通して、キリスト者、信仰者としての証し、しるしの場所に変えられたのです」。ここにはまた三つの「共に」があります。人が被造物と共に、人が人と共に、しかし、神が全被造物と共にいてくださるのです。          

   しかも、被造物が虚無に服したは、神によることが記されます。そこにこそ望みがあります。虚無もまた、神によってその存在をゆるされているとすれば、虚無にも望みがあります。「今、人間とすべての被造物に負わされている、あの苦難は、この神の御業であり、その問いであります。また同時にその答えであります。そしてまさにそれゆえに、すべての被造物に希望が与えれているのです」とある人は言っています。
「被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである」(21節)
だからこの苦しみは「産みの苦しみ」と言われているのです。つまり陣痛、それ新しいものの誕生にほかなりません。  

   ドイツでは、愛する者が召されて悲しみの中にあるご遺族に、同情を示す、すばらしい言葉があります。それは連帯を表す「タイルネーメン(参加したい、共に歩みたい)」という語です。とてもよい言葉だと思います。日本で言う「お悔やみ申し上げます」は、「悔やむ、悔しいこと、残念だ」、そこには仕方ない、宿命観みたいなものがあります。  
  しかし、「タイルネーメン」は「部分を引き受ける」ことです、ここには、さきに述べた連帯があります。「あなたのその痛みを、共にに一部分でも分かちあいたい」意味です。イエスは十字架の上の犯罪人に「今日、あなたはわたしといっしょにパラダイスにある」と言われました。この犯罪人にとって、死は、「イエス・キリストと共にいる存在」に変わりました。そこにはニヒリズムの片鱗もありません。聖霊を受けた経験のある人は、その時、不思議と「他者との連帯感」を感じたと言います。聖霊は「交わり」です。  

   
「御霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださる。なぜなら、私たちはどう祈ったらよいか分からないが、御霊みずから言葉にあらわせない切なるうめきをもって、私たちのためにとりなしてくださる」
  この聖霊の「共に(とりなし)」が現れるのです。阪神淡路大地震の時の連帯を考えて見てください。もしこの連帯がなければ、あの大震災で虚無的気持ちになったでしょう。私たちの「うめき」の中に、聖霊「言いがたきうめき」の連帯があるのです。その時、「すべてのことが相働いて益と変えられる」(28節)のです。そこにはニヒリズムの陰もありません。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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