3月21日(日)「わたしはあなたの名を呼んだ」説教要旨

           聖句
旧約 「わたしは主、あなたの名を呼んだイスラエルの神であることを、あなたに知らせよう。わがしもべヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする」
  (イザヤ45:3-5)

  新約 「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきことと思わず、かえって、おのれを無にして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神はかれを高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った」
  (ピリピ2:6-9)


  今日は「名の問題」です。ベンヤミンは、「真理とは、事物、人物に名を与えることである」と言いました。それは創世記2:19に、

   「そして主なる神は、野のすべての獣と空のすべての鳥とを土でつくり、人のところに連れてきて、彼が、それにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった」
とあることから来ます。

  人は皆、名前をもっています。「あなたの名は、全世界に一つしかない、かけがえのない貴い大切なものです」。この名の真理は小学生でも分かります。九十九匹を野において、迷う一匹の羊をどこまでも追い求める羊飼い。また

  「これらの最も小さい者の一人にしたのは、すなわちわたしにしたのである」(マタイ25:40)
とのイエスの言葉。これらは名の真理を表しています。

  今日の聖句に

  「わたしは主、あなたの名を呼んだイスラエルの神であることを、あなたに知らせよう。わが僕ヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、わたしはあなたの名を呼んだ。あなたが、わたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた」(イザヤ45:4)
とあります。主の祈りは、「願わくは御名をあがめさせたまえ」で始まります。神に名があります。ただ「永遠」とか「絶対者」とかいう普通名詞ではありません。「ヤハウエ」という、たった一つしかない名です。それは「わたしはならんとするものになる」という意味です。つまり、あなたの姿、状況、歴史、生涯、それにあわせて「なる神」です。「ある神」でなく、「なる神」です。それが「ヤハウエ」という名の意味です。  

  私たちが、神の名を覚えて祈るように、神はわたしの名を呼び、たとい私たちが、神を知らなくても、神はあなたの名を呼び続けます。これが名の真理です。神がわたしの名を呼んだ、だから私たちも、神の名を呼ぶ、「その時、主の名を呼ぶ者は、皆救われるでしょう」(使徒行伝2:21)。    

  さらに私たちは、お互いにその名をもって呼ばなくてはなりません。生きている者だけでなく、死んだ者をも、アウシュヴィッツ・ヒロシマで死んだ人びとは、無駄に死んだのか、否、死者をその名で呼ぶ者は、生者のつとめです。

  「イエス・キリストは死者と生者の主となるために、死んでよみがえられたのです」(ローマ14:9)
元従軍慰安婦も、戦没者も、また大空襲で死んだ者も、ガンでなくなった人も、その名で呼ばれなくてはなりません。沖縄の平和の礎(いしじ)、そこには名が刻まれています、しかも米兵も、民間人も兵隊も区別なく。  

  「神はいるか」、「神はどこにいるか」という問いに対する、聖書の答えは、

  「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきことと思わず、かえって、おのれを無にして、僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有り様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。このゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を賜った」(ピリピ2:6-9)
です。ここにも名がでてきます。しかも無にしてというところから、名がでてきます。コンピューター時代に入ると、ますます人情紙よりも薄くなり、国民総背番号、つまり、九十九匹という数が、一匹よりも貴ばれる時代になります。そういう時代だからこそ、一匹を尊ぶ名の真理は、力を発揮するのです。  

  さらに動物、植物、鉱物、一切のものに名を与えなくてはなりません。ベンヤミンは廃墟、廃物を大切にし、一粒の米をも大切にします。ベンヤミンにとって、死の問題も自分の死でなく、死者たちの死(他者の死)です。死者に名を与えること、墓地こそ名の根源ではないでしょうか。その名の背後には、たとい知らなくても、その名を呼ばれる神がおられます。

  「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする」
それゆえ、すべてその神の名を呼ぶ者は救われる。伝道とは、その人の名を呼ぶことである。そしてその人の名を呼ぶことは、神の名を呼ぶことに通じます。それが伝道です。  
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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