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5月16日(日)「 神さまの食事に集まって 」説教要旨
  イエスさまは、信仰を食事にたとえています。どうしてでしょう。
- 1 食事は、私たちのからだのいのちを支えます。そのように信仰は、私たちの心のいのち、本当のいのいちを支えます。
  食事はただ見ているだけでは、少しも栄養にはなりませんし、おなかが一杯になりません。手を出して食べなくてはなりません。
  そのようにイエスさまの信仰も、見たり調べているだけでは、駄目です。教会に来り、聖書を読んだり、お祈りしたりしなくては、信仰は栄養となり、成長しません。
 
- 2 次に、食事は、楽しく、喜びです、食べると満足します。そのように信仰は、楽しく喜びで、満たされます。これを喜びの福音と言います。
 
- 3 さらに食事は、一人だけで食べてはおいしくありません。みんなで食べると、食欲も出てきます。そのように信仰は交わりです、こっそり一人でするのではありません。みんなで教会にきて、いっしょに賛美歌を歌い、お祈りをして、成長します。
  今日のイエスさまのたとえは、毎日の食事といっても、宴会、結婚式のようにみんなをご招待する大きな食事です。こういう時、ユダヤの国では、2週間ぐらい前に、招待状という手紙がだされます。そして食事の日になると、「さあ用意ができました。おいでください」と、しもべが一軒一軒招待した人の家をまわって歩くことになっています。
  信仰という食事は、神さまが、私たちのために用意してくださったものです。私たちがごちそうを作ったり用意したりするのではありません。十字架もよみがえりも、聖霊もみな神さまが用意してくださったものです。よく考えてみると、私たちの生活の中で、私たちが用意するものは少ないようです。朝起きて顔を洗う、その水は神さまの造ったものです。洋服、その生地、さらに羊毛、綿、これも神さまがくださったものです。聖書も神さまの贈り物です。
 しかし、水で洗うのは自分のすることです。神様が聖書をくださっても、読まなくては宝のもちぐされです。信仰にも私たちのすることがあります。ご招待を受けて、ごちそうを食べに行くことです。教会に来てお祈りすること、神様のお言葉を聞くことです。
  さてみな第一の招待は受け入れました。「参ります」、出席と書いて出しました。しかし、いよいよしもべがきて、「さあ、おいでください、用意ができました」と言われると、急に、神さまのお招きを断る人が出てきます。神さまのごちそうよりも大切なものがある人たちです。神さまよりも大切なものって何でしょう。
 ある人は、「わたしは土地を買いました行って見なければなりません。おゆるしください」。この人は、土地を買ったことが、神さま以上に大切なことだったのです。「見なければなりません」。どうしてもしなければなりません。それはある人にはサッカーだったりするでしょう。
 次の人は「五対の牛を買いました。それを調べに行くところです」。今、出かける最中だというのです。第三の人は、「結婚しました、行くことができません」でした。とうとう神さまの用意したお食事に、招いた人は、だれ一人来ません。会場はがらんどうです。
 神さまは、大変怒って、町中に行って、だれでもいい、連れていらしゃい、「貧乏な人、目の見えない人、足の悪い人」、みんなからは、のけ者にされ、招待など生まれてから受けたことのない人びとでした。神さまのお国は招待状をもらう偉い人でなく、招待状ももらえない、なんでもない人びとがやってきます。
 しかし、しもべは言いました、「おおせの通りしましたが、まだあまりの席があります」。この最後の言葉、これこそ私たちの慰めです。神さまのお国は、「満員御礼」ということはありません。
 私はこういう話を聞いたことがあります。ある田舎の教会で、夜の礼拝でした。牧師さんが、だんに立って説教しようとしました。ところがだれも来ていません。それでも牧師さんは、一人で賛美歌を歌い、大声で説教し、お祈りし、一時間ほどの礼拝が終わりました。
 ところが翌日一人の男の人がきました。実はゆうべ礼拝に出ようと来たのですが、だれもいないので、会堂に入れず、そっと窓の下、外で聞いていたそうです。ところがだれもいないのに、ふだんと同じように礼拝し説教し、賛美歌を大声で歌う、その真剣な牧師さんの態度にうたれ感動したそうです。この人は後に洗礼を受けました。皆さん、こういう人が、イエスさまのあまりの席に座われる人ではないでしょうか。
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ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。 |
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