5月30日(日)「 神との対話・人との対話 」説教要旨

           聖句
旧約 「言葉が多ければ、とがを免れない。自分のくちびるを制する者は知恵がある。正しい者にの舌は精銀である。悪しき者の心は価値が少ない。正しい者のくちびるは多くの人を養い、愚かな者は知恵がなくて死ぬ」
  (箴言10:19-21)

  新約 「キリストも私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れて、神の栄光をあらわすべきである」
  (ローマ15:7)
 

   「神の栄光をあらわす」とはどういうことでしょうか。原語のギリシア語で「メガリュオー」、これは「メガトン級」というように、「大きくする」ことです。「神を大きくする」とは、反対に「自分を小さくする」ことです。  

  今日の箇所では、「あなたがたが互いに受け入れ」あうことです。それは対話に現れます。相手を受け入れない人は、自己主張のみで、対話がありません。他者不在で、ひとりごとのみです。多くのことをしゃべっても、ひとりごとの場合があります。お母さんが子供を叱っても、ひとりごとである時、どんなに強烈でも、子供の頭上を飛び越えて、はるか後ろで炸裂します。それは子供には何の影響も与えません。そこで「この子は言うことを聞かない」と嘆きます。実はそこには対話がないのです。  

  「空の鳥が空気を必要とするように、お魚が水を必要とするように、私たち人間は互いに受け入れあうことを必要としている」(モルトマン)。  

   反対にたとい一人の人が講演しても、それが対話である場合はあります。その話が自分の身にしみ自分に言われている気がし、何か聞こうと思っても、次の言葉で答えが出ているのです。しかし、対話していても、ひとりごとのような対話もあります。かみ合わないのです。問題は対話かひとりごとかではなく、心の問題です。次の言葉を味わってください。  

   新約聖書では「キリストも私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れて、神の栄光をあらわすべきである」「受け入れる」ことは、聖書によく出てくる言葉です。
「これらの小さな幼子を受け入れるものは、私を受け入れるのである」(マルコ9:30)
「キリストも私たちを受け入れてくださったように」、それは信仰義認です、罪人にもかかわらず、キリストは私を受け入れてくださったのです。    

  放蕩息子のたとえ、ザアカイの話、十字架の罪人に対する言葉、すべてイエス・キリストの姿は「受け入れ」にほかなりません。神は三位一体、まさに神ご自身が対話する神です。その時、神は自己謙虚です。キリストは、低くなり人となられました。そこに自己謙虚なしには、対話はなりたちません。私たちはとかく、自分をしゃべりたいです。それは自分にとって、自己宣伝になるし、自分の気持ちが休まるし、自尊心も満足します。しかし、それは相手にとっては、いやらしく聞こえる場合もあります。自己主張と他者受容が交互でなくてはなりません。  

   対話にはいろいろな種類があります。 
  • 1 物語る対話-自分の経験を語る。相手は聞き役です。それがいい場合もあります。
  • 2 質問する対話-これは下手をすると尋問になります。
  • 3 説得する対話-これは叱責になる可能性があります。
  • 4 キャッチボールの対話-理想的に見えます。しかし、「進歩するキャッチボール」と「おしゃべりキャッチボール」とあります。どちらもそれなりの意味があります。進歩するのは、お互いに知識や経験が深められ、よい事です。おしゃべりキャッチボールは、必ずしも悪いとは言えません。それはいやしにつながります。カウンセリング効果です。
 

   しかし、どのような対話でも基本は、「互いに受け入れあって、神の栄光をあらわす」ことにあります。そんなだいそれたことはできないという人がいます。しかし、結果として、お互いに心地よさが残る対話は、多分神の栄光が現れているのだと思います。そして個性を愛し、一人一人の違い、差異性を大切にすることです。  

   深刻なのは、対話の断絶です。それは片方もしくは両方の傲慢によります。自分のみ偉いとき、対話はうまく進みません。そのため、三位一体の神にも断絶があります。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
十字架における子の嘆きです。三位一体には十字架があります。そして子が痛んでいる時、父も痛んでいるのです。その分裂を救うものが聖霊です。  

  私たちは「聖霊の交わり」、「聖霊のとりなし」と言います。三位一体の神は、対話の断絶を乗り越え、三位一体の交わりに発展するのです。そして「わが神、わが神」は、子の嘆きであるばかりか、子の祈りだったのです。苦しみの中で、必死に祈ることが、勝利につながるのです。「汝の敵を愛せ」と言われた時、そんなことはできませんと言う人のために、「汝を責める者のために祈れ」と言われたではないですか。愛の断絶のただ中に「敵のために祈る」とりなしの祈りがあるのです。祈りとは、人との対話の断絶のただ中にある神との対話にほかなりません。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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