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6月20日(日)「 神の本質(自由と愛) 」説教要旨
  聖句
旧約 「私はエフライムに歩むことを教え、彼らを私の腕にいだいた。しかし、彼らは私にいやされたことを知らなかった。私はあわれみの綱、愛のひもで彼らを導いた。私は彼らに対しては、あごから、くびきをはずす者のようになり、かがんで彼らに食物を与えた」  (ホセア11:3-4)
新約 「自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださったのである。だから、堅く立って、二度とくびきにつながれてはならない。
 見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。私たちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている 。
 キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである」  (ガラテヤ5:1-6)
 
「私はあわれみの綱、すなわち愛のひもで彼らを導いた。私は彼らに対しては、あごから、くびきをはずす者のようになり、かがんで彼らに食物を与えた」 神は、愛のひもで私たちを自由へと導かれるのです。「自由」とは何でしょうか。「今日、皆が言う自由とか人権は、その背後にあるものを考えてみないと、人権とか自由は、自己主張の別名になります」。自由はしばしば自分勝手とはきちがえられます。それは私たちが自覚的に勝ち取った自由でなく、敗戦によって他から与えられた自由だからです。
  今日、「信教思想の自由、言論の自由・・・」、一つ一つ民主社会で大切なものです。しかし、その民主社会を築いたのには、その信仰的・思想的背景があるのです。一人一人神から与えられた貴い魂を持つ、この個人の尊厳から自由が生まれました。したがって他者の人格・魂を尊重しなければなりません。
  今日言われているのは、「からの自由」で、「への自由」がありません。私たちは「何を目指して、自由なのか」考えてみる必要があるのです。神の愛ひもが、私を自由に導いたとすれば、「への自由」の目標は、「愛」ではないでしょうか。「兄弟たちよ、あなたがたが召されたのは、実に自由を得るためである。ただその自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」  (ガラテヤ5:13) 自由とは、人間がほんとうに人間らしく愛をもって仕えあうことです。放蕩息子は、自由を求めて、父親が生きているうちに、財産を要求し、父親のきずなから自由になりました。しかし、彼は金を放蕩でみな使い果たし、乞食同然になりました。それは自由とは正反対、実は「欲望の奴隷」だったのです。そこに兄息子もいます。彼は父の家で何一つ不自由なく暮らしていました。しかし、彼は律法で固まって、放蕩息子の弟をゆるせません。決して自由ではありません。ここには、外見的に自由に見え、その実、不自由な姿が描かれています。この二つの不自由的自由、「欲望の奴隷」と「原理主義」は現代社会の縮図でもあります。
  「堅くたって、ふたたび奴隷のくびきにつながれないようにしなさい」 そのためには、堅く福音に立たなくてはなりません。自由な自律的人間とは、自分から自由に判断し、決断できる人です。それはイエースとノーをはっきり口に出して言うことのできる人です。案外日本社会は、大胆にノーと言えない社会ではないでしょうか。それは、キリストの福音が生きていないからです。自由の背後に、福音がないのです。キリストにあって大切なのは「ただ愛によって働く信仰」です。「キリスト・イエスにつく者は肉を情欲と欲望といっしょに十字架につけてしまったのです」(5:24) そうなら、洗礼を受けてキリスト者となったら、私たちの中に罪はなくなるのでしょうか。
  パウロは、同信の友の中にも深い罪を認めます。それどころか、他人の罪に出会う時、それは同時に自分の中に罪が働く機会とさえなるのです。愛する人が、罪を犯した時、特に自分に向かって何か不実をした時など、怒り心頭に発し、愛の心を失なってしまいませんか。ここでパウロは言います、「人が罪を犯したのに出会う時ほど、優しい愛の心をもたなくてはならないのだ」 と。「霊の人であるあなたがたは、柔和な霊をもって、あなた自身も誘惑におちいらないかどうか、気をつけながら、このような人を正しなさい」 ということです。
  人は生来、他人の失脚、失敗を喜び、その罪過に激しい怒りをもってのぞむのがふつうです。その時、霊の人にサタンが忍び込みます。実はこの時ほど、愛の心を必要とする時はないのです。柔和とは、ただおとなしいというだけではなく、他者の立場に立ち、思いやることを表しています。「柔和な心」よりも、神の霊をいただく面が強いと思います。なぜなら、柔和は、「正す心」と一緒になって力を発揮するからです。正義は、愛の心を失う時、さばきに変わります。柔和と正義は、肩を並べていっしょに歩くものです。
  それゆえ、主イエス・キリストが十字架を負われたように、「お互いに重荷を負いあう」ことが必要です。お互いに重荷を負いあう時、愛も正義もともに生きてくるでしょう。「律法全体は、『自分自身と同じように、あなたの隣人を愛しなさい』との一語に、成就されているからです」(5:14) パウロにとって「キリストの律法」とは、「愛の律法」です。その時、注意することが、二つあります。一つは「あなた自身も誘惑におちいらないかどうか、気をつけながら、このような人を正しなさい」 です。他は「お互いに重荷を負いあいなさい」 ということです。まず自らも反省してみることが大切です。というのは、罪は相手ばかりでなく自分にもあるからです。キリストも、人の目にあるちりを取り除く前に、まず「自分の目から梁を取り除きなさい」(マタイ7:5) と言っています。正義の士は、とかく独りよがりになりがちです。さらに「重荷を負う」ことは、「お互いに」となっています。よく一人で我慢して重荷を負う人がいます。それは美徳に見えて、傲慢の変形である場合が多いのです。
  人間は、「人」という字が、二本の棒からでき、しかも、互いに支えあっているように、必ず互いに生きることが、大切です。愛は「互いに」でない時、それが自己義認のチャンスとなります。人が自分の無を感ずることが、うぬぼれへの害悪をまぬかれさせ、他者の重荷、罪を負うことへと進歩発展させます。「愛は多くの罪をおおう」からです(Ⅰペテロ4:8、箴言10:12)。「互いに重荷を負う」ことが大切です。
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ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。 |
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