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8月15日(日)「宗教に直面させる三つの問題」説教要旨
  聖句
旧約 「主よ、わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにありま
す。わたしをすべてのとがから助けだし、愚かな者にわたしをあざけらせないでくだ
さい。わたしは黙して口を開きません。あなたがそれをなされたからです」  (詩編
39:7-9)
新約 「アブラハムは、この神、すなわち死人を生かし、無から有を呼び出される
神を信じたのである。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」  (ローマ
4:17-18)
  人は「無」に出会う時、宗教に求めます。仏教では「無」をありのままに「無」と
して受け取る、そこに「悟り」の道が開かれると言います。しかし、キリスト教で
は、無は有に変えられます。「アブラハムは、この神、すなわち死人を生かし、無か
ら有を呼び出される神を信じたのである。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じ
た」(ローマ4:17-18) とあるように。
  ただ「無」は具体的には三つあります。第一は、「死」です。人は死に直面した
時、何らか宗教を求めます。イエス・キリストの真理は、「死人のよみがえり」、
「復活」です。日曜日に教会に来るのは、その日が、イエス・キリストの復活した日
だからです。
 私自身、教会の門を叩いたのは、死がこわかったからです。「では、キ
リスト教に入り洗礼を受けたら、死が恐ろしくなくなったでしょうか」。それはに
は、いろいろな経験をへて到達した真理があります。牧師で人間の最後にふれる機会
が多く、その虚無にふれるうち、そのみじめさの末、虚無を越えるものを見いだした
のです。それが、私の信じる復活の信仰です。
 第二は、絶望です。日本は今、自殺者が年間4万を越えると言われています。それ
は人生に絶望するからです。
 江戸時代、商売に失敗して借金を山と負い、信州の山奥
の宿で死のうと思った人が、ふと見ると泊まった部屋に屏風があり、そこに川柳が書
いてありました。「裸かにて生まれてきたに何不足」と。彼はこれで目が覚め、江戸
帰り成功したという話があります。
 聖書にもヨブ記に、「われ裸かにて生まれ、裸に
てかしこに帰ろう、神与え、神取りたもう、神の名はほむべきかな」(ヨブ1:20) と
あります。またある信仰者のホテルの女主人、うまく行かず多くの借金をかかえ湖に
飛び込んだが、死にきれずもがいていると、突然「汝立ち返りて静かにせば、救いを
得、穏やかにしてより頼まば力を得べし」(イザヤ30:15) という聖書の言葉が聞こ
え、そこからはい出て救われました。ここにも絶望の無から、有に変えられる信仰が
あります。
 第三は、罪です。罪とは何でしょうか。エゴイズムの固まり。傲慢、愛のない冷た
さ。神から離れている姿、どれでもよいです。世の中を悪くしているのは、人間の罪
です。それは死と同じ性質があります。
- 1.だれにでもある。
- 2.さけられない
- 3.最後は無に通じる
- 4.一人一人がもっている
- 5.他人に代わってもらうことができ
ない
しかし、今ここに、代わってもらうことができないその罪を、代わることので
きる方が現れました。それは神でなければならない、なぜなら罪人は罪人を救えない
から、しかし、人の罪を代わるのだったら、それは人間でなくてはならない。それが
イエス・キリストです。キリストは、「あなたの罪はゆるされた」といわれます。最
大の罪人、十字架の犯罪人に、「今日あなたは、わたしと一緒に、パラダイス天国に
いる」と受け入れてくださいました。ここに真の宗教があります。それは死の場合と
同じ、無に等しい者を有としてくださったのです。全く罪人で、同時に全く義人で
す。「罪の増すところ、恵みもいや増す」(ローマ5:20) という聖書の言葉もありま
す。
 8月15日、それは敗戦の日です。戦争とは、まさに「無」に直面させる事態にほ
かなりません。そこには「死」が目の前に、現実的にあります。同時に「絶望」もあ
ります。敗戦直前は、まさにそのような時でした。そして戦争ほど人間の「罪」をあ
からさまする者はありません。  しかし、その中で弟は洗礼を受けました。私は、その
洗礼式で、戦争という「死」・「絶望」・「罪」の真っ只中にある神の恵みの業を感
じ、動かされました。
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ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。 |
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