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8月22日(日)「 恵みは自然を破壊せず」説教要旨
  聖句
旧約 「主はすべて彼らの心を造り、そのすべての業に心をとめられる。王はその軍勢の多きによって救いを得ない。勇士はその力の大いなるによって助けを得ない。馬は勝利に頼みとならない。その大いなる力も人を助けることはできない。見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある」  (詩編33:15-18)
新約 「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。それらは、神の言葉と祈りとによって、きよめられるからである」  (Ⅰテモテ4:4-5)
  今日の題は、中世最大の神学者トマス・アクイナスのもので、その後が続き、「恵みは自然を破壊せず、かえってこれを完成す」となります。そしてプロテスタントの神学者カール・バルトも、この言葉を肯定的に引用しています。私もすばらしい言葉だと思います。しかし、ここでいう「自然」とは何でしょう。それは私たちが、週日に日常生活で出会うすべてのものです。たとえば科学技術、お金、商売、仕事、恋愛、親子のきずな、芸術、趣味、すべてくるめて「自然」です。
  信仰の熱心な人は、恵みがすべてで、信仰のみ、福音のみに徹します。しかし、その時、「自然」はどうなるのでしょうか。先の日常生活で出会うすべてのものは、「信仰・恵み・福音」と関係ないのでしょうか。
  この二つを並行線で生きる人がいます。信仰は教会、週日は仕事と割り切って二元論で行く人があります。それはどこかにごまかしがあり、そのような信仰には力がありません。 しかし、アクイナスという神学者は、この二つを素晴らしい仕方で結びつけたのです。「恩寵は自然を破壊せず、かえってこれを完成す」と。
  古い改革派の神学には、「一般恩寵」と「特殊恩寵」という言葉があります。「一般恩寵」というのは、アクイナスが「自然」と呼んでいたものと、ほとんど同じで、科学技術、お金、商売、仕事、恋愛、親子のきずな、芸術、趣味、一切を含めて言います。その時、改革派の神学では、「一般恩寵」の世界は、確かにそれも恵みの世界である、神の恵みの創造物です。
  今日の聖書によれば、「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない」 のです。しかし、それは人間の罪に汚れているから「特殊恩寵(キリストの恵み)」によって、きよめられ、改善されなくてはならないというのです。つまり「それらは、神の言葉と祈りとによって、きよめられる」 のです。
  恋愛とか、お金にしても、それ自体よいのか悪いか、どちらともいえないでしょう。しかし、キリストの恵みに方向づけられるなら、「恵みは自然を破壊せず、かえってこれを完成する」のであります。それは並行線的ごまかしではなく、正しい信仰的、神学的方向づけであることが分かります。
 次に親子の愛情を考えてみましょう。もし神の上からの恵みなしに、人間の愛情だけだったら、溺愛、過保護の愛になりかねません。しかし、イエス・キリストの恵みにより救われた人間は、その受けた恵みを指し示すことはできる。それが恵みによる教育です。
  問題は、それが何の目的に使われるか、またどのような仕方で生かされるか、そのことです。今日科学技術を見てください。確かににそれは私たちの生活を便利にし、生活を向上させました。しかし、一面、環境破壊を生み、原子爆弾を造り出しました。神の恵みによって方向づけられねば、それは悪となります。もっと個人的な問題でも私たちの愛情は、「エロース的自己愛」で、神の恵みアガペーに方向づけられねば、それは悪になります。
  悪い面を、今取り上げましたが、よい面に行きましょう。恵みは、自然をその本来の目標に向かって完成するのです。その本来の目標とは何でしょうか。神は世界を無から造られました。しかし、それを愛によって、愛に方向づけて造りました(アウグスチヌス)。もし神の恵み、愛を離れれば、それは虚無に落ちて行くでしょう。しかし、上を向いて、神の愛に、恵みに導かれれば、世界は、その愛の目標に向かって行くでしょう。
 ティヤール・ド・シャルダンと言う、カトリックの神学者であり、また北京人類の発掘にもたずさわった文化人類学者がいます。彼は、進化論をまじめに受け取りました。この点、アメリカの原理主義者とは正反対です。しかし、彼は、進化論を神学者として、信仰的に、キリスト中心に考えました。進化の目標は何か、自然科学では、そこまで言えません。彼は進化の目標をオメガ点とし、それをイエス・キリストとしました。進化はイエス・キリストに向かって進んでいるというのです。ある意味で、この考え方は、「恵みは自然を破壊せず、かえってこれを完成する」に通じるでしょう。
  そういう大きなことでなくても、私たちの身近かなことで、たとえば自分の仕事のことで考えてみましょう。それでも同じことが言えます。私は、アルジェリアの多元社会での仕事に、信仰的理解が用いられ、「名の信仰」が有効であったことに驚きました。それもまた、「恵みは自然を破壊せず、かえってこれを完成する」を、地で行ったことでしょう。あなたのお金を、あなたの物質を、今、汚れていると思わず、きよく用いましょう。
 旧約聖書では「主はすべて彼らの心を造り、そのすべての業に心をとめられる。王はその軍勢の多きによって救いを得ない。勇士はその力の大いなるによって助けを得ない。馬は勝利に頼みとならない。その大いなる力も人を助けることはできない」 とあります。仕事には、物質的な面が多くありますが、しかし、その物質を用いるのは、人間です。「主はすべて彼らの心を造り、そのすべての業に心をとめられる。王はその軍勢の多きによって救いを得ない」 のであります。しかも、「馬は勝利に頼みとならない。その大いなる力も人を助けることはできない。見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある」 そこで物質は、少なくとも物質だけでは頼みとならないのです。主の目はどこにあるのでしょうか。それは「主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある」 のです。
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