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8月22日(日)「 恵みは自然を破壊せず」説教要旨
  聖句
旧約 「万軍の主、イスラエルの神よ、あなたはしもべに示して、『お前のために家を建てよう』と言われました。それゆえ、しもべはこの祈りをあなたにささげる勇気を得たのです。主なる神よ、あなたは神にましまし、あなたの言葉は真実です。あなたはこの良きことをしもべに約束されました」  (サムエル下7:27-28)
新約 「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。友だちが旅先から私のところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、彼は内から『面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めてしまったし、子供たちも私と一緒に床に入っているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう」  (ルカ11:5-8)
  今日の題は、「祈りの力」ではなく、「祈る力」です。名詞(祈り)でなく動詞(祈る)です。このたとえの前に、「イエスはある所で祈っておられた。弟子のひとりは、『私たちにも祈ることを教えてください』と言った」 とあります。祈ることを聞く際、実際イエスは祈っていたのです。そして弟子たちも、「祈りについて教えてください」と聞いてはいません。「祈ることを教えてください」です。
  かってユダヤ人哲学者マルティン・ブーバーは、「それについて語る神は、本当の神ではない、それに向かって語る神こそが本当の神だ」と申しました。信仰のことは、「について」、「に関して」ではありません。事実そこにあることです。百遍祈りについての講義を聞いても、祈らなければ何もなりません。信仰は実践です。解説や説明ではありません。イエスはよきサマリア人のたとえの最後に、「行って、あなたもそのようにしなさい」(ルカ10:37) と言いました。
  イエスの「祈りについてのたとえ」には、祈りとは程遠い最悪の状況があります。このたとえでは、「真夜中」。貧しいやもめのたとえでは、「神を恐れず、人を人とも思わない最低の裁判官」(ルカ18:1) です。祈りが聞かれる状況にない時です。内から『面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めてしまったし、子供たちも私と一緒に床に入っているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言う」 声が聞こえます。今日、最悪の事態でも、そこで最善をなされる神に求めるのが祈りです。あなたの最悪の事態も、それは祈りに不都合な時ではなく、それこそ祈る最善の時なのです。祈るとは、この最悪の状況の中で、神に求めることなのです。
  ここで「よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう」 とあります。この「しきりに願う」とは、あくことのない熱心(原語でアナイデーシス、なりふりかまわない大胆率直さ)を言います。私たちが長い間、信仰を続け、神さまと友人関係をあてにして祈っても聞かれません。そこでたったひとつ必要なのは、「なりふりかまわず神にせまる大胆さ」のみです。
  また祈りの長さが必要です。多くの人はイエスが「また祈る場合、異邦人のようにくどくどと祈るな。彼らは言葉数が多ければ、聞きいれられるものと思っている」(マタイ6:7) と言っているので、短い祈りを考える人がいますが、しかし、弟子を選び出す時、「「イエスは夜を徹して神に祈られた」(ルカ6:12) とあります。ただ祈る長さにも二通りあります。一つは、1回の祈りの時間の長さです。もう一つは、いつまでも何年もあきらめないで祈りつづける忍耐強さです。私の経験では、非常に長く祈る時、三つのことを生みます。その祈りは、
- 1.自分を変えます。
- 2.周りをかえます、つまり思わぬ出会いがあります。
- 3.洞察力が生まれます。時間的にも長く祈るべきです。
  次に何年も長く忍耐深く祈の長さは、大変必要です。10年後祈りが聞かれるという事実もあります。確かにすりかえるようにすぐ祈りがきかれることもありますが、そのようなすぐ聞かれる祈りは、たいしたことではありません。それは小さい事です。それに比べて、祈って祈って、やっと聞かれる祈り。「神のなさることは、時にかなって美しい」(伝道の書3:11) とあるように、聞かれない期間を長くもつほど、その聞かれた結果は、すばらしく大きいものです。いやそれどころか、祈りは、忘れたころ聞かれる場合があります。「神が事をなしたもう時、私たちの側に、何もないような仕方で聞かれる」とカルヴァンは言いました。私の祈りが聞かれるのでなく、神が事をなさるのです。
  「祈って求めることは、すでに得たりと信じなさい」(マルコ11:24)
そこでは長さと共に、深さ、確信が必要です。「求めよ、探せ、門をたたけ」、それはだんだんに強くなって行く祈り、初めは口で求め、さらに歩いていって探す。さらに手を使って「門を叩く」。そこには、からだ全部が祈りのために総動員されています。
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ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。 |
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