9月19日(日)「 三位一体の真理 」説教要旨

           聖句
旧約 「互いに呼びかわして言った『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ』。その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた」
  (イザヤ6:3-4)

  新約 「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである」
  (エペソ4:5-6)


    「三位一体」という言葉は、この世の普通のことでも使うようになりました。しかし、信仰の三位一体は、ただこの世のように、三つが一つで、一つが三つというだけではありません。三位の一つ一つが、それぞれ別で、独立していることをも語っています。また三位の相互内在ということも言います。しかし、なぜこんな面倒なことを言うのでしょう。

   それは1.「神は生きています」こと。2.しかも、「あなたにおいて生きています」ことを言うためです。分かりやすく言えば、施設にいる子がいます。「君にお父さんがいる」というと、「それは当たり前だ。僕にも父はいる」と。

  しかし、「今、、そのお父さんがあなたを求めて、玄関まで来ている」と言われたらどうでしょう。それはもう「父の存在」という知識ではありません。その子は「え、どこに」と飛び出して行くでしょう。そのように三位一体の神はあなたにおいて生きていますのです。   

   「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである」。第一は、「すべてのものの上にいます」。神がすべてのものの上にいますことなら、神は永遠だから誰でも認めるでしょう。その神はすべてのものの上にいますから、見えません。  
   ところが神さまの「見えない」は、宇宙の限界線が見えないのとは全く違います。「見えない」神は、しかも生きています神です。その神を信じて生きている人びとが何千億とおり、信じている人の生活を生かしているのです。したがって、その神は、見えるようにもなるのです。難しく言えば、絶対で永遠の神は、見える相対的なものになるのです。  

   それが、第二のことです。「すべてのものを貫き」です。たとえば「神は愛である」と言います。その愛は、すべての人にかかわってくるのではないでしょうか。一部の人だけを愛する愛は、相対的人間の愛であって、絶対、永遠なる神の愛ではありません。その愛の神は、クリスマスの言葉で言えば、「インマヌエル、神わられと共に」いますのです。あなた神は見えないと言うのですか。しかし、愛なる神は、すべてのものを貫いているのです。それはあなたにも及んでいるのです。  

   しかし、現れた神と言っても、二千年前生きていたので、現在ここにはいません。ところがそれは「すべてのものの内にいます」神でもあります。それは聖霊なる神です。私の中に来てくださる。「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである」。聖霊は祈りを通して私のもとに来ます。

   聖霊、「わたしの中にいます神」、それは分からないと言いますか。たとえば、ここにもきっとテレビの電波は来ているでしょう。しかし、私たちは、その電波を感じません。しかし、ここにテレビの装置をおけば、テレビが見えます。そのことによって、私たちはここにもテレビの電波が来ていることがわかります。

   信仰も同じです。私たちの生来の人間には、聖霊を感じることはできません。しかし、今、テレビの装置をおくと分かるように、聖書を読み、教会に来て、祈りをすることによって、私たちは聖霊を感じるようになるのです。その時、ことは突然に起こります。聖霊を感じた時、父・子、聖霊なる三位一体の生ける神が、私にとって生きている神となるのです。  

   イザヤ書6章の預言者イザヤの召命の記事にあるのも、三位一体の神です。
「互いに呼びかわして言った『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ』
その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた」。それは預言者イザヤの中に生ける神でした。その証拠に、天使は「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と三度同じことを繰り返し、その声によって、敷居の基が震い動きました。この三位一体の神が、私たちを捕らえる時、私たちの生きている土台が震い動きます。そして私は変えられて、神の僕になります。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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