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10月10日(日)「 高き者のへりくだり 」説教要旨
  聖句
旧約 「あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり、欠けたところのない者には、欠けたところのない者となり、清い者には、清い者となり、ひがんだ者には、ひがんだ者となられます。あなたは苦しんでいる者を救われますが、高ぶる目をひくくされるのです」  (詩編18:25-27)
新約 「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事と思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を賜った」  (ピリピ2:6-9)
 私は敗戦の前後、茨城県の山村で小学校の教師をしていました。敵の本土上陸にそなえて、小学校の三分の一は軍隊の宿舎に貸していました。夜、軍曹ぐらいの兵隊が、職員室にたずねてきてお茶飲み話の中で言うには、「いざ戦いとなったら、あんないばって兵隊を苦しめる上官は、『あとぽん』だ」と。「あとぽん」とは、弾が前方からでなく、後ろから味方の兵隊から飛んでくることを言います。「恐ろしいこと」です。これほど日本軍は権力を笠に着ていばっていたのです。 ところが敗戦後、アメリカ軍が七、八人、学校にある軍国主義的なものを取り除くために来ました。昼の食事の時間に、自分たちのもってきた携行食糧を、校庭の片隅で自分たちで料理しました。すると上の位の隊長が、先に立って料理をしているではありませんか。軍国主義日本では、隊長はいばって部下に君臨し、民主主義国アメリカでは、上の者が下の者に奉仕しているのです。
 聖書では「神は苦しんでいる者を救われますが、高ぶる目をひくくされるのです」(詩編18:25-27) また「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事と思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとられました」 聖書の真理では、「上の者は低くならねばなりません」。そのことによって皆が、心から尊敬して、全体が動き出すのです。ピリピ書のこの箇所のすぐ前に、「何事も、野心や虚栄心からするのでなく、お互いにへりくだった心になって、ひとを自分よりも優れたものと考えなさい。ひとりびとり、ただ自分のことだけを考えるのではなく、他の人のことも考えるようにしなさい」 とあります。ただ低くすることが、部下掌握の手立て、方策なのではなく、ここには深い人間観があります。「へりくだった心になって、ひとを自分よりも優れたものと考えなさい」。他者の中に、「自分よりも優れたものを見いだす」、これが聖書の人間観です。「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事と思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」 神ご自身が、天の高みにおいて、人間世界を支配しようとせず、神は愛である、その本質とおり、自分を無にして、僕のかたちを取られたのです。それは謙遜という身振りではありません。神ご自身が愛の神で、謙遜こそがその本質なのです。
 日本で「謙遜」とは控え目で、消極的です。しかし、キリストの謙遜は、「僕のかたちをとり、人間の姿をして、奉仕しました」。それは積極的な奉仕であります。私たちは「天にまします私たちの父」と言って、神を天の高みにおられるお方と考えがちです。けれども、神のかたちにいましたキリストがご自身をむなしくして、僕のかたちを取った」のです。それは「神は本当は高いところにおられるのですが、一時、臨時停車みたいに、地上に降りてきた」のではありません。水戸黄門が百姓じいさんに身をやつして、下々のことを思いやるが、いざという時、葵の印籠を差し出して、「ここのおられるお方は、恐れ多くも天下の副将軍水戸光圀公なるぞ」と、切り札をだすのとは違います。このお方は十字架から飛び降りて、「神の子なるぞ」と叫んだのではありません。
&nbsむしろ反対に十字架の上で「わが神、わが神どうして私をお見捨てになったのですか」 と、徹底的にその低さを貫き通しました。ここにこそ、愛なる神の第一の姿があるのです。ルターは言いました、「全世界も包みきれないお方が、今マリアのひざに横たわっている。この方は小さく幼児となられたが、ただこの方が全世界を包んでおられる」と。
 苦悩し死にたもう十字架の神、それこそ神の第二の姿とか、仮の姿ではなく、愛なる神の本質的な姿なのです。この何の代価も求めず、ただ「死のほか何も報いられず、十字架に上げられたまいし、この人を見よ」と賛美歌にあるように、生きたお方、その方こそ、真の神、真の人、人となられた神なのです。けれども、ここには惨めな死のみがあるのではありません。そこには真の勝利が語られています。
 しかし、勝利は、神のこの低さの続編とか、第二編といったものではありません。聖書は告げます。「・・・死に至るまで、十字架の死に至るまで、従いました。それゆえ、神はまた彼を高く上げ、すべての名にまさる御名をお与えになりました」 このような主の僕の姿こそ、イエスにふさわしいものなのです。「無になられた」のです。今時代はニヒリズムであります。しかし、恐れることはありません。その神の子が、自ら「無」を引き受けられたのです。
 これ以外に今日のニヒリズムを克服する道はありません。それゆえ、ここにあるイエスの苦悩を身に受けて、戦ってゆかねばなりません。それだからイエスのよみがえりのみからだには、十字架の傷あとがあったのです。ここで謙遜とは、ただ遠慮したり自分を人前で低く見せたりすることではなく、この苦しみ死なれた勝利者イエスの前に、自分を低くして、その戦いを共に戦うことではないでしょうか。
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ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。 |
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