12月5日(日)「 ザカリヤの賛歌 」説教要旨

           聖句
旧約
 「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め、わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう」  (詩編42:11)


  新約
 「父ザカリヤは聖霊に満たされ、預言して言った。『主なるイスラエルの神はほむべきかな。神が、その民をかえりみて、これをあがない、わたしたちのために、救いの角を僕ダビデの家にお立てになった。・・・
   幼子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう。主のみ前に先だって行き、その道を備え、罪のゆるしの救いを、その民に知らせるのであるから。
   これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。またそのあわれみによって、日の光が、上からわたしたちに臨み、暗黒と死の陰とに住む者を照らし、わたしたちの足を、平和の道に導くであろう』」  (ルカ1:67-80)


   キリストの誕生の頃、ザカリヤという老祭司がいました。彼には子供がいません。しかし、歳をとったということは、決して希望のないことではありません。その証拠に驚いたことに、老祭司に赤ちゃんができるのです。
  また預言者エレミヤは、
「私は年が若いのです」
と言って神の召しを断りました。しかし、神は
「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしが遣わす人に行き、あなたに命じることをみな語らねばならない。彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」(エレミヤ1:6以下)
と言いました。
「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め、わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう」
神の聖霊が導くのに、どうしてうなだれるのですか。使徒行伝の聖霊降臨の時
「神がこう仰せなる。終わりの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。あなたがたの娘は預言し、若者は幻を見る。老人たちは夢を見るであろう」(使徒行伝2:17)
とあります。ザカリヤは妻エリザベツに、子が生まれるのに
「どうしてそんなことがあるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も歳を取っています」
と、神に逆らったので、口をきくことがことができなくなりました。しかし、彼は、その子の名を問われた時、御使いの言うとうり、
「その名はヨハネです」
と書きました。不服従の間には、沈黙させられました。しかし、不服従なザカリヤは、ついに神の御旨に従いました。この不思議な神への服従は、ザカリヤを聖霊の器にしました。  

  九か月にわたる長い沈黙の時は、ザカリヤにとって、決して無駄ではありません。それは、ザカリヤを完全にからにしました。私も神学校に行く前、田舎の小学校の教師をしたり、開拓農民として、荒れた土地を開墾鍬で掘り起こしました。それらすべてのことが、無駄にはなりませんでした。
  聖霊の器は、欠けていてもよいけれども、「空(から)」でなくてはなりません。私たちも、しばしば苦しみのどん底におかれ、沈黙する以外になくなる時、それは、私たちをからにします。からになった茶碗でなければ、おいしいお茶や御馳走を入れることはできません。古い自分が死んで、からになったその時、生ける神が入ってこられるのです。

   その時、彼は、疑いつぶやく信仰から神をほめたたえる信仰に変えられ
「イスラエルの神、主は、ほむべきかな」
と、讃歌を歌いだしたのです。私たちも、讃美歌を歌います。しかし、讃美歌とは、神をほめたたえる歌です。ただメロディーにのって、いい気になっているのではなく、神を大きくしなくてはなりません。一切の一切であられる神が、わたしと共にいたもう、ですからこの神を讃美する歌は、心から、魂の奥底から、からだ全体から出てきて、神を大きくするものでなくてはなりません。

   このように神をほめたたえる讃歌には、自分の子ヨハネについては、ほんの二、三行しか語りません
「幼子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう。主のみ前に先だって行き、その道を備え」(76、77節)
しかもヨハネは、救い主キリストを指し示す者として誕生したので、決して英雄や偉人ではありません。したがって、ここではただ神の約束と、クリスマスで祝う救い主キリストについて語られているのです。その人の中で、キリストが大きくなればなるほど、そしてそのキリストのかげに、その人が小さくなればなるほど、実にその信仰は大きいのです。私たちは偉大な人にはなれない、しかし、偉大なキリストを指し示す証人にはなれます。

  
 「幼な子は成長し、御霊によって強められ、イスラエルに現れる日まで、荒れ野にいました」
荒れ野は、ヨハネにとって、神の学校でした。このような、静かな隠棲を忘れてはなりません。それどころか、そこに本質的なことが横たわっているのです。私たちもヨハネによって、「静かな、孤独の祝福を学ばなければなりません。世間の目がわたしに向けられれば向けられるほど、またわたしの目が、この世のものに引かれれば、引かれるほど、わたしたちは、いっそうこの静かな沈黙を必要としてきます。 この静かな祈りの部屋から、慰めと落ち着きに満ちて、公の場に現れることができるのです。そこでは、聖霊がわたしたちの教師です。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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