12月12日(日)「 マリアの賛歌 」説教要旨

           聖句
旧約
 「ハンナは祈って言った、『わたしの心は主によって喜び、わたしの力は主によって強められた、わたしの口は敵をあざ笑う。あなたの救いによってわたしは楽しむからである」  (サムエル上2:1)


  新約
 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主なる神をたたえます。
   この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人びとは、わたしを幸いな女と言うでしょう。力ある方が、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、そのあわれみは、代々限りなく、主をかしこみ恐れる者に及びます。
   主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。
   主はあわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました。わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを、とこしえにあわれみむと約束なさったとおりに」  (ルカ福音書1:46-55)


   マリアは、自分を「卑しい女」と言いました。しかし、
「この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました」
神さまが、私を「丁寧に配慮してくださった」と言うのです。 神の業は、高いものを低くし、低いものを高くしてくださることです。

   パウロはⅡコリント8:9で、
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それはあなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである」
と言っています。これは、まさにクリスマスの使信ではないでしょうか。

  クリスマスとはただ単に神の御子がこの地上にこられたということではありません。そこに出来事が起こったのです。静的でなく動的です。私たちは、自分の信仰をこのように動的に捕らえなければなりません。つまり、それはただマリアに起こった出来事ではなく、また私たち一般に起こった事件でもなく、それは動的に、あなた自身に起こる出来事なのです。私にもあなたにも起こるのです。
  しかも、この私たちというのは、日々、いさかいや口論し憎しみ合い、また悩み、心配し、思い煩ってばかりいる、そのあなたのところに起こる出来事なのです。   
 たといキリストが千回ベツレヘムに生まれても、    
     あなた自身の中に生まれなければ、それが何になろう。   
    しかし、キリストがあなたの中に生まれたとしても、    
     もしベツレヘムに生まれていなければ、それが何になろう


   ベツレヘムと私、その二つが一つになる時、クリスマスがあなたに起こったと言えるのです。しかし、そのマリアが口をついて初めに出た言葉は
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主なる神をたたえます」
です。「わたしの魂」、アウグスチヌスもその告白録の初めに、「わが魂の主よ」と神に呼びかけました。アウグスチヌスにとって、私の魂と生ける神とはつながっているのです。もちろん直接ではありません。彼は自分の罪を深く知っています。しかし、それにもかかわらず、神の恵みによって、つながっているのです。
  そして言いました、
「主よ、私の魂はあなたに造られたゆえに、あなたを見いだすまでは平安をえません」
と。マリアも自分の魂の主に呼びかけたのです。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主なる神をたたえます」
したがって、「卑しいはしため」が先に来るのではありません。

  「卑しいはしため」、自分の罪、弱さがいつも先に来る人がいます。劣等感コンプレックスにおちいっているのです。しかし、その弱さからマリアは立ち上がりました。劣等感を信仰によって克服したマリアは、まず初めに言いました。。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主なる神をたたえます」
「あがめる」という言葉は、「大きくする」意味です。私たちが劣等感におちいるのは、「神の大きさ」を忘れているのです。「あなたの神は小さすぎます」。

   次の、「わたしの霊は救い主なる神をたたえます」の「たたえる」とは、歓喜する意味です。ある信仰問答書に、「神をエンジョイする」という言葉が使われていました。皆さん、神をエンジョイしているでしょうか。「神をエンジョイする」ようになったら素晴らしいことですね。

  「神が大きい」の反対は、「自分が大きい」、あるいは、神以上に大きいものを沢山もっています。お金が大きい、自尊心が大きい、勝とう勝とうとする心のみ大きい。しかし、マリアは「力ある方が、わたしに大きなことをしてくださったからです」と言っています。

  力ある大きな神は、大きなことをしてくださいます。あなたはマリアと同じように、このことを信じますか。このマリアの賛歌によって、世界の人びとはつながりました。高い人は低くされ、低い人とつながりました。低い人は高くされ、高い人とつながりました。それはすべての人が、このことをなしたもう主の御腕を見つめるためです。「主はみ腕をもって力をふるい」とあるとおりです。

  私たちは主の御腕を見ないで、「低い」と卑屈になりませんか。その御腕は隠れて見えません。しかし、その働きは何と偉大なことでしょう。マリアはその賛歌で、この神の偉大さを歌ったのです。それはほかでもなく私の低さのところにあるのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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