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2010年12月19日(日)クリスマス礼拝説教「神われらと共に」
説教:蓮見和男
  聖句
旧約 「それゆえ主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」  (イザヤ7:14)
新約 「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである。すべてこれらのことが起こったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』」  (マタイ1:21-23)
 クリスマスの意義を一言で言い表せば何でしょうか。それは今日の聖書にある、
「インマヌエル、神われらと共に」 です。
「インマ」は、旧約聖書の言葉ヘブル語で「共に」を意味し、「ヌ」は「私たち」で、「エル」が「神」です。つまりインマヌエルとは「共にー私たちとー神が」です。神の本来の姿は、この「共に」です。それは「愛」と言いかえてもよいでしょう。
 父・子・聖霊の三位一体の神は、神ご自身「共に」の姿であるように「ご自身の中で対話する愛の神」です。それで、私たち世界と「共に」あることが、生ける愛の神の本質です。しかし「われら」とは誰でしょう。それはクリスチャンだけではありません。すべての人です。いや、全世界すべての人です。
 そのことを具体的に私の経験で示しましょう。私は生来臆病で、死ぬのがこわかったし、神経質でたえず心配して、からだも弱かったのですが、30歳前後から俄然、明るくなり、何にも希望をもち、多くの人を励ますことができるようになりました。
 なぜそうなったのか、大きな要素はカール・バルトの神学の影響だと思います。その神学の本質は一言で言えば、「インマヌエル、神われらと共に」 です。その場合、彼の言う「インマヌエル」は、二千年前ベツレヘム生まれたキリストを指すだけではなく、それも大切ですが、バルトにとっては、それは第二義のインマヌエルです。
 第一義のインマヌエルとは「永遠の昔、そべてのものが創造される前、神が全世界を『インマヌエル、神われらと共に』の中におかれたのです」。
 別な言葉で言えば、「存在としては、事実ありのままの姿でいえば」、第二のインマヌエルであるキリストの誕生を知らなくても、またイエスを信じなくても、「存在としては、事実上」、あなたも私も、すべての者が「神われらと共に」のもとにあるのです。この世で何が起こってもあなたは「インマヌエル神われらと共に」のもとにあるのです。
 このことは決して金輪際変わらない、神の原事実なのです。この客観的な神の事実。私はこのインマヌエルの原事実を知った時、全く明るくなりました。たとえば私が認知症になって、イエスとは誰か分からなくなっても、このインマヌエルは変わらないのです。
 分かりやすい例をあげましょう、難破船にあって、イカダにつかまっているとして、私の力は尽き果てるでしょう、そして手を放せば沈みます、しかし、その時、なおイカダの上に力づよいお方がいて、支えてくださるなら救われます。私がイカダをつかんでいる手、それは疲れて離れるでしょう。しかし、その疲れはてたあなたの手をつかんでいるイエス・キリストの手、それはあなたを決して離すことはありません。それが第一義のインマヌエルです。
 しかし、この第一義のインマヌエルを知らせるために、今日クリスマスの時、神の子は人なりベツレヘムの馬屋に生まれたのです。このインマヌエルを知った人、それはキリスト者と呼ばれるでしょう。しかし、それはこの世の時間で少し早く、「インマヌエル、神われらと共に」 を知ったに過ぎません。第一義のインマヌエルから見れば、同じです。存在としては、「インマヌエル、神われらと共に」 はすべの人にあてはまるのです。
 それでは信じても、信じなくてもいいではないか、そうではありません。このインマヌエルを知る前の、私を考えてごらんなさい。神経質で、心配性で、死がこわくて苦しんでいました。それがすっかり取れて、別人のようになったのなら、これを知らないこと、信じないことは、何と大きな損失でしょう。イカダにぶら下がって、自分の力で、その上におられる力づよい方を知らないとしたら何と不幸なことでしょう。
 だから知った人は、知らせる責任があるのです。しかし、「俺は知っている。お前は知らない。教えてやろう」ではありません。「あなたにも、インマヌエルがあるのですよ、あなたには、それに気づかないだけですよ」と言うだけのことです。それが伝道、宣教というものです。新しいことを教えることが伝道ではありません。ただ存在していることを、存在していますよと知らせるだけです。
 しかし、さらに第三のインマヌエルがあります。それは「私の中、あなたの中に生けるキリストです、一人一人に生きるインマヌエル」です。これは聖霊の業です。さらに第四のインマヌエルがあります。それは神の国が完成するその時、永遠の御国において、「わたしは新しい天と新しい地とを見た」 という、その時、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとってくださる。もはや死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない」 と言われる、最終的「神われらと共に」です。
 このようにしてクリスマスは、永遠の初めから、最後の完成にいたるまで、私たちと人類、自然、全世界宇宙の歴史を包み込んでいるのです。「あなたがたは世にあっては悩みがある、しかし、勇気をだせ、私はすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33) というお方が支えているのです。
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ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。 |
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