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1月9日(日)「 神の国 」説教要旨
  聖句
旧約 「彼らは御国の栄光を語り、あなたのみ力を宣べ、あなたの大能のはたらきと、み国の光栄ある輝きとを人の子に知らせるでしょう。あなたの国はとこしえの国です。あなたのまつりごとはよろずよに絶えることはありません。主はすべて倒れんとする者をささえ、すべてかがむ者をたたせられます」  (詩編145:11-14)
新約 「御国が来ますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」  (マタイ6:10)
 主の祈りの第二の祈りは、「御国を来らせたまえ」 です。御国とは神の国、天国のことです。「国」というと、私たちは領土、土地のことを思い起こします。しかし、ギリシア語で「国(バシレイア)」は、土地よりも「支配」をあらわします。土地があって自分のものだと言っても、現実に支配していなくてはなりません。もし神の国が「神の支配」だとすると、「神さまの御業」がゆきとどいているところは、みな神の国です。もし私の心を神が支配しているなら、今この私のところにも神の国は来ているはずです。
 聖書にも「神の国は見られるかたちで来るものではない。また『見よ、あそこに』、『見よ、ここに』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:20) とあります。賛美歌90番にも「ここも神のみくになれば、よこしま暫しはときを得とも、主のみ旨ねのややになりて、あめつちついには一つとならん」とあります。
個人的神の国(終末現在説)です。
 しかし、賛美歌にも「主のみ旨ねのややになりて、あめつちついには一つとならん」とあり、それは将来的神の国です。しかし、「神の国」という以上、それは私一個人では始まりません。全体に行き渡らなくては。それは終末の時を待って実現することです。
 まだ悪魔が支配している以上、全体が神の国とは言えません。とすると、部分的神の国と全体的神の国があるのです。私一個人でも、死を目の前にして、神の国に入ると言います。イエス・キリストは十字架の上で、罪人に、「今日あなたは私と共に天国にある」 と言われました。そのように神の国を個人的に考えてもよいのです。
 しかし、本来神の国は、全体として来るのです。「もはや死もなく、悲しみもない国」 黙示録に出てくる新しい天と新しい地です。その全体的神の国に向かって、私たちは今、途上にあります。
 今日の旧約聖書に「彼らは御国の栄光を語り、あなたのみ力を宣べ、あなたの大能のはたらきと、み国の光栄ある輝きとを人の子に知らせるでしょう。あなたの国はとこしえの国です」 とあります。したがって私たちにとって神の国は、祈りの目標です。「主よ、御国を来らせたまえ」 と。しかもその目標である神の国は、今の途中と関係があります。私たちがこの世で物や金がなくて困っている時、イエスは言われました。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすればこれらのものは、すべて添えてあたえられます」(マタイ6:3)
 つまり、祈りの目標がはっきりしていいる時、地上の手段は、その目標の付録のようにして与えられるのです。だから神の国は、道でもあるのです。先ほどの旧約聖書の続きに「あなたの国はとこしえの国です。あなたのまつりごとはよろずよに絶えることはありません。主はすべて倒れんとする者をささえ、すべてかがむ者をたたせられます」 とあるではありませんか。神の国より先に、物や金を求めても、それは与えられません。「まず第一に神の国を求めなさい」 いや私の求めているものは、そんな高尚なものではありません。「今日必要なお金です、物です」と言うかも知れません。それは、本屋に行って、この雑誌の付録だけくださいと言うようなものです。付録だけ求める人は、思い煩いがどーと入ってきます。第一と第二を混同してはなりません。第一は「神の国と神の義」 です。ですから主の祈りでも、「日用の糧を与えたまえ」 は、神の国の祈りの次の次にあるのです。
 次に平和とか、愛の面で神の国を考えてみましょう。この世にはまだ完全な平和は来ていません。完全な愛の国でもありません。そこには神の国の目標と共に課題もあるのです。それは次の祈り「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」 に現れています。神の国は、目標である共に課題です。平和運動や、その他の運動、活動、NGOなど、地上の運動で平和はこないかも知れません。「私たちの求めるのは、イエス・キリストの永遠の平和だ」と言う人もいます。
 しかし、そうでしょうか。私たちの運動は、キリストの平和、愛、恵みに対する応答です、証しです。教育と同じように、イエス・キリストを指し示す、バプテスマのヨハネの指です。たとえばEUを見てご覧なさい。それは完全な平和にはならないかも知れませんが、その証しになります。それゆえ「御国を来らせたまえ」 は祈り求めとなるのです。
 それにもかかわらず祈りの聞かれない場合、聖書では、「なるようにしかならない、だから仕方がない」という宿命論にはなりません。パウロは自分の慢性病がなおらない時、神の御声を聞きました。「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの恵みは弱いところに完全に現れる」 つまり、パウロは聞き入れられないことを通して、新しい恵みを経験したのです。もう一つはイエスのゲッセマネの祈りです。それは聞かれないことが十字架に結び付き、その後、何千年の救いの源となったのです。したがって、祈りはすべて聞かれるのです。私たちにとって祈りがきかれないと思っている時も、それはもっと大きな面から考えると、私たちが考える以上にすばらしい形で、祈りが聞かれているのです。
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