|
|
|
|
|
|
|
|
2月13日(日)「 試 練 と 誘 惑 」説教要旨
  聖句
旧約 「あなたがたの神、主がエジプトにおいて、あなたがたの目の前に、あなたがたのためにもろもろの事をなされたように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、強い手と、伸ばした腕と、大いなる恐るべき事とをもって臨み、一つの国民を他の国民のうちから引き出して、自分の民とされた神が、かってあったであろうか。あなたにこの事を示したのは、主こそ神であって、ほかに神のないことを知らせるためであった」   (申命記4:34-35)
新約 「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」  (マタイ6:13)
  「試み」には良い意味と悪い意味があります。良い場合は「試練」、悪い場合は「誘惑」と言います。試練は、神から来ますが、「誘惑」というと、「悪魔の誘惑」、「サタンの誘惑」など、悪魔からくると考えられます。
  しかし、よく考えて見てください。聖書では、この両者は一つです。 パウロが慢性の病気の時、「どうかこの病を取り去ってください」
と、神に三度祈りました。しかし、病は、「高慢にならないよう、私に与えられた肉体の一つのとげ、それは高慢にならないようにと、私を打つサタンの使いです」
とすれば、病気は、彼を傲慢にしないよう、神がサタンを遣わして、パウロを打ったのです。だから、主は言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの恵みは弱いところに完全にあらわれる」   「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だからわたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしは弱い時にこそ強いからである」(Ⅱコリント12:9)
すると、聖書の信仰の真理によれば、悪魔の誘惑と神の試練とは、ほとんど同じことの裏と表なのです。
  たとえば、病気を考えてください。これは神の試練でしょうか。それとも悪魔の誘惑でしょうか。その病気を通して、よりよく人生の深みを知り、神の真理が分かり、いっそう強くされたなら、まさにそれこそ神の試練にほかなりません。しかし、病気によって、気が弱くなり、何もできなくなって、世を呪い、人をうらやみ、神が分からなくなるなら、まさに、それは悪魔の誘惑です。同じ一つのことが試練ともなり誘惑ともなるのです。
その他、失業、破綻、貧乏、何の不幸でも同じです。
  旧約聖書のヨブ記では、神さまの会議に悪魔も連なっています。神のゆるしを得て、悪魔はヨブに悪さをします。神は全能で、すべてをつかさどるとすれば、サタンも神を越えることはできないのです。見方によっては、サタンも神の使いになることがあります。イザヤ書には、「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、また禍いを創造する」
という言葉もあります。しかし、神が禍を創造するのは、罪をさばくためです。また詩編には、「やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれと、わたしが言っても、あなたには、闇も暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには、闇も光も異なることはありません」(139:11-12)
闇は悪いものですが、サタンも闇ももろとも、神はたずなを握っておられるのです。そのことは、私たちが苦しみ悩みに会った時、どんなに大きな慰めと励ましになるでしょう。
  さて主の祈りにもどりましょう。「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」
山中鹿之助は、「われに百難辛苦を与えたまえ」と祈ったそうです。かれは自信があったのでしょう。しかし、信仰からすれば、それは傲慢に過ぎません。神を試みてはならないと言われます。イエスは、悪魔に宮の天辺から飛び降りてみよ言われた時、「あなたの神を試みてはならない」
との御言葉で撃退しました。聖書は私たちは試みに弱い者との前提に立っています。
  私たちの生は、たとい信仰者の生、敬虔な人の生であっても、それだけに危険にさらされています。自分の敬虔な態度が偶像になることがあるからです。私たちに襲いかかってくる誘惑の最たるものは、神から私たちを引き離し、この世の力の大きさを信じ込ませ、神の働きの場を、せいぜい私たちのちっぽけな頭の片隅に追いやることです。
  このような誘惑は二つあって、一つは苦しみが非常に大きいか、また快楽や富が非常に大きくなると起こってきます。苦しみが大きいと、もう駄目だと思い込んで、神の大きな力を忘れる誘惑に陥ります。また富や快楽があまりに大きいと、これで大丈夫とか、自分は偉くなったと思い込み、これまた神のことをほとんど考えなくなるのです。
  ある人が言っています。「私たちが神なしに何事かをやってゆけるという誘惑に屈する時、初めのうちは非常に成功をおさめるという事です。成功信仰、こそ偶像礼拝にすぎません」。このような試みに勝つためには、まずしつこく祈らなくてはなりません。自分で勝とうとする前に、祈ることが最良の方法です。上からの神の力によってだけ、自分やまわりの力を大きく考えてしまう誘惑を打ち破ることができるからです。悪魔とは、神以外ののものを大きく見せる手品師です。
  しかし、Ⅰコリント10:13には、こう書いてあります。「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられない試練に会わせることがないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、逃れる道も備えてくださるのである」
|
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。 |
|
|
|
Copyright(c)2010 Setagaya Chitose-Church
All rights Reserved.
|
|