2月20日(日)「神 の 栄 光」説教要旨

           聖句
旧約
 「その時モーセはアロンに言った、『主は、こう仰せられた。すなわち、わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることことを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』。アロンは黙していた」  
(レビ記10:3)


  新約
 「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死人の中から引き上げられた平和の神が、イエス・キリストによってみこころにかなうことを、わたしたちにして下さり、あなたがたがみ旨を行うために、すべての良きものを備えてくださるようにこい願う、栄光が世々限りなく神にあるように、アァメン」  (ヘブル13:20-21)


   主の祈りの最後は、
「国と力と栄えとは、限りなく、なんじのものなればなり」
となっています。ここには神さまに関する三つのことが記されています。それは、祈りというと、私たちがとかく自分中心になり、自分の願い、欲望、願望のとりこになるからです。

   今、私たちは祈りの最後に、目を天に向け、この願いを満たしてくださるものが、どこからくるかを知るのです。シュヴァイツァーがアフリカで、医療をほどこしている時、二回目に治療した家へ行ったら、薬瓶を祭って拝んでいました。土地の人びとは、あたかも薬瓶に霊能があるかのごとく、薬瓶を神にしているのです。私たちも下手をする、神がしてくださったことを忘れて、この世の力が働いているかのごとく、薬瓶を拝むようなことをしていないでしょうか。それゆえ祈りの最後に、神の働き、「国」と「力」と「栄え(栄光)」の三つを祈り、祈りの聞かれる源に到達するのです。

  三つのうち、まず分かりやすい「力」から行きましょう、祈りをすることは、ある意味で力を求めているのです。たとえば、病気の人が健康を求めて祈るとします、それは、「体力、健康の力、いやしの力、回復の力、自然の治癒力」を求めているのではないでしょうか。仕事が失敗しないように祈る人は、仕事を仕上げる力を求めています。しかし、私たちは、それを自分や人間の能力と勘違いします。もちろん、人間の能力も肝心には違いありません。先ほどの聖書も
「平和の神が、イエス・キリストによってみこころにかなうことを、わたしたちにして下さり、あなたがたがみ旨を行うために、すべての良きものを備えてくださるようにこい願う」
とあります。しかし、私たちのもつ力、それは必要ですが、第一のものでも最後のものでもありません。その力は、神のもの、いや神から来るものです。
「あなたがたは立ち返って静かにするならば、救いを得、穏やかにしてより頼むなら、力を得る」(イザヤ30:15)
とあるのも、その力、穏やかにして得る力は、神のものです。

  今ここで私たちに祈りの中心の逆転がなくてはなりません。人から神へと。その最良の例は、ゲッセマネの祈りです。あそこには力の逆転があります。イエスは初めは、
「どうかこの杯をわれより去らせたまえ」「しかし、わが心のままにとにあらず、御心をなさせたまえ」
と祈っています。私自身がどうしてよいか分からず、さまよって教師のもとにたどり着いた時、先生がしてくれた祈りは、「最悪を最善に変えたもう神よ」で始まりました。「人から神へ」、この逆転なしに、真の祈りはありません。 

  第二は「国」です、国と言われると、私たちはまず、日本の国や、あるいはアメリカ、ロシア、ドイツ、フランスなど、世界の各国を思い出します。そしてその時、考えるのは、第一に領土、土地です。しかし、それは、ここで言う「国」とは少し違います。ここで国(バシレイア)は「支配する」という言葉の名詞形です。つまり神の「国」とは、神さまの支配の行き渡っているところです。

   すると、それは先ほどの「力」と関係があります。「国」とは、神の力が行き渡っている場所です。土地でなくても、人間の間でも、人間の心の中でもかまいません。しかし、やはり「国」ですから、ここには、人間の心の中だけでなく、外の政治的領域を指すでしょう。

  私たちは政治を考える時、神の支配を考えるでしょうか。政治や経済、それは人間のやることと考えていないでしょうか。しかし、この世の政治の場こそ神の力の働く場所です。その証拠に、信仰のない政治家でも、「政治の世界は一寸先が闇だ」と言うではありませんか。しかし、その祈りは、政府をキリスト教化することではありません。この世的政治の領域に、神のご支配が行き渡ることを祈るのです。

   スイスの諺に「スイスは人間の混乱と神の摂理によって支配されている」というのがあります。この「人間の混乱」と「神の摂理」を忘れないで下さい。それが主の祈りの最後に、「国」の出てくる意味なのです。経済でも家計でも、仕事でも、学業でも同じです。ふつう仕事やお金が先で、神は後という考えが行き渡っています。それで仕事がうまくゆくのでしょうか。

  それで最後に「栄え」、「神の栄光」のために祈ります。栄光とは何でしょうか。それは「神さまを大きくすること」です。神を大きくするの反対は、自分を大きくする、「自分の栄光を求める」ことです。つまり神の栄光を祈らない「あなたの神は小さすぎます」。その反対に、自分が大きくなっているのです。祈り求めるものは、自分よりもはるかに大きな神から来る。これがこの祈りの最後に「国と力と栄えとは、限りなくなんじのもの」と付け加えることの意味なのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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