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2月27日(日)「 出 る 幕 」説教要旨
  聖句
旧約 「わたしは一つの事を主に願った。わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしさを見、その宮で尋ねきわめることを」   (詩編27:4)
新約 「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである」  (Ⅰコリント10:23-24)
  「出る幕」とは、よく日常で使う言葉です。「これは君の出る幕ではない」とか、「これは私の出る幕だ」とか。これは芝居の言葉でしょう。もし俳優が、自分の出番でない、幕にでたら、どんなに名演技をしても、それが名演技であればあるほど、こっけいになります。
  私たちの日常生活では、自分の出番、つまり出る場所が大切です。誰でも自分の力を発揮する場があります。音楽では、すばらしい力量を発揮しても、スポーツは苦手の人もあります。
 からだが悪くて寝たきりでは、そういう力を発揮する場所がないと思う人がいるかもしれませんが、胸をわずらって、病床であらゆる教会や人びとのために、祈りに終始した人がいます。その人の日記には、先月祈ったあの教会にリバイヴァルが起こったとか、彼が教会に行き始めたとか書いてあったということです。
  どんな人にも、出る幕のない人はいません。「君にも何かができるのです」。そのことは祈りのうちに、必ず見つかります。
  「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない」 私はある時、すべて良いことをやろうとしました。しかし、あれもこれも良いことだと思ってやると、一つ一つは、大ざっぱでいいかげんになります。それだけではなく、からだももちません。そして悟りました。何でもやることは、何もしないと同じようになると。
 「何にでも手を出す人は、自信のない人である」という言葉があります。神はあなたに、「これ」という場を与えておられます。それに生きる時、ほかのことも道が開けるものです。この自分の場、つまり「出る幕」を見つけることは、信仰の一部です。
  「すべてを許されている」。しかし、本当に益になることは、多くはないのです。マルタは、さまざまなことで、思い煩い労していました。そして妹のマリアに腹を立てました。しかし、イエスは言われた、「マルタよ、あなたはさまざまなことで、思い煩っているが、なくてならぬことは多くはない、いやただ一つである」(ルカ10:41) 芭蕉は「ついに無能無才にして、ただこの一筋につながる」と言いました。そして神の与えたその一筋を見いだした人は、それが全部につながることを知るのです。したがって、大切なことは、新しく得ることではなく、「捨てる」が中心になります。本当のことをする人は、何をするかよりも、何を捨てるかを考えなくてはなりません。
  しかし、聖書には、別なことも書いてあります。「神を愛する者、み旨ねによって召された者には、すべてのことが会い働いて益となる」(ローマ8:27) 「すべてのことが益」ということは、失敗も益ということです。多くのことをやりすぎて、失敗しても、その失敗は、多くの教訓を残し、次のことをするために良く働くのです。
  しかし、「神を愛する者には」 です。何でもかんでもがむしゃらに突っ走ってもだめです。失敗が生きるのは、あなた自身に「神を愛する心」がある時です。 そこでここでは、「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである」 とあるのです。隣人のために生きる時、神さまが入ってきます。その時、自分も生かされ、他者も生かされるのです。そのようにして私たちは信仰の道を歩みはじめるのです。
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ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。 |
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