3月13日(日)「真 ん 中」説教要旨

           聖句
旧約
 「わたしは二つのことをあなたに求めます、わたしの死なないうちに、これをかなえてください。うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。飽き足りて、あなたを知らないといい、『主とはだれか』と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです」  
(箴言30:7-9)


  新約
 「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである」  (エペソ4:5-6)


   今日の旧約聖書の箴言の言葉は、きわめて面白いものです。いわば「富みもせず、貧しくもならず、中辺どころがよい」ということです。日本人が慣れ親しんできた論語には、「中庸は徳の至れるものなり。過ぎたるは及ばざるがごとし」という言葉があり、アリストテレスの倫理学では、「徳は中である」と言っています。しかし、論語やアリストテレスで中庸がよいという理由は、実際生活でよいと言う「生きる知恵」です。しかし、聖書は違います。「主はだれか」ということ、「主の名を汚す」ことが中心にあります。つまり、人間の都合で中間がよいでなく、それが神の真理で、神の名を貴ぶ所以だからです。神中心です。

  エペソ書には、
「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである」
とあります。これは三位一体の神の真理を表しています。
「すべてのものの上にある神」
は万物の創造者なる父なる神です。
「すべてのものを貫き」
はキリスト子なる神です。そして
「すべてのものの内にいます神」
それは聖霊です。私たちの救いの中心イエス・キリストは、神でありつつ、人のかたちをとられた、まさに「真ん中」です。 つまり「真の神にして真の人」という、中間の真理の中に救いがあります。カルヴァンは、「真の人は、罪をあがなうことはできず、真の神は死ぬことができない。それゆえ神は、神と人を結合なさった」と言っています。

  またマルチン・ルターは言いました、「私たちは全く罪人で、同時に全く義人である」と。ここにも二つの真ん中の真理が現れています。しかし、それは先ほどの「中庸」とは違います。パウロは
「すべての人は罪を犯したゆえに、神の栄光をうけられなくなっている。しかし、信じる者は価なしに、神の恵みによりキリスト・イエスのあがないによって義とされる」(ローマ3:23)
と言いました。しかし、聖書の言う「真ん中」の真理とは、ただ実際的に中辺どこがよい、「足して二で割る」式の中庸、中間ではありません。とことんんまで罪の深みに沈んだ人間が、全く神の恵みによって救いの頂点に高められるのです。私たちが生活の中で絶望して、どうしようもなくなっている真ん中に、上から希望が現れるのです。まさに「最悪を最善に変えたもう神」であります。真ん中にはキリストがおられるゆえに、私たちもまたそこにいるのです。たといこの人は絶望的だと思っても、信仰の人は、決して人にも絶望しないのです。
「絶望こそ救いの頂点だからです」。パウロはこう語っています、「私たちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえうしなっていまし、心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。神は、このような死の危険から、私たちを救い出してくださった。」(Ⅱコリント1:8)


  仏教でも、中観と言います。それは無と有の真ん中、「空」とは無と有を越えた中間、それをありのままを受け入れることが悟りの境地です。しかし、そこには、自分と空だけあって、社会とか歴史がありません。積極的に、今の社会を変えて行こうという倫理は出てきません。仏教的真ん中は受け身的、消極的です。

  しかし、パウロはアブラハムの信仰によって、信仰義認を説明しています。
「アブラハムはこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望みえないのに、なおも望みつつ信じた」(4:17-18)
それは死や無を克服する新しいいのちの世界です。そこからは、社会を変えてゆこうという積極的生き方が生まれてきます。つまり信仰の真理とは、ただ中間がよい、物事、中庸がよいと言っているのでなく、そこには、生き死にの世界があるのです。死をとおしていのちが、それが復活の真理です。そこには絶望との戦いがあります。絶望と希望の中間がよいのではありません。その中間には、イエス・キリスト、神にして人、人にして神なる救い主が立っているのです。これは生命の真理です。今日の題の「真ん中」とは、嵐の海のただ中に立って、「われなり、恐るな」と言われるイエス・キリストの立つ真ん中です。絶望の真ん中にある希望です。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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