4月10日(日)「すべてのものに神を求めよ」説教要旨

           聖句
旧約
 「少しのものを所有して主を恐れるのは、多くの宝をもって苦労するのにまさる」  
(箴言15:16)


  新約
 「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろからだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。二羽のすずめは一アサリオンで売られるではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている」  (マタイ10:28-30)


   神は、全能で永遠であると共に、遍在しています。遍在とは、あまねく世界のすべての所に神はおられるという意味です。「台所の神」「ガマグチの神」という説教をした人がいます。台所やガマグチの中に神を考える人は少ないでしょう。しかし、神の遍在を信じるなら、ゴミ箱から、便所にさえ、神を見いだすはずです。そうでないと、信仰は二元論になり、教会や神学の世界にのみ神を認めて、汚い所には神を認めたがりません。すると世界は神のいます所と神のいない所に分かれてしまいます。そういう信仰は二元的で抽象的です。それには力がありません。

   太宰治の小品に「トカトントン」というのがあります。何をしても「トカトントン」という音が聞こえて、どうしてよいか分からず、作家に相談の手紙を送った人に、作家が答えたのは、今日の聖句です。
「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろからだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」
それは「トカトントン」という、一種のノイローゼの世界にも神がいることを忘れた人間の姿を示しているのではないでしょうか。その御言葉のすぐ次に
「二羽のすずめは一アサリオンで売られるではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている」
とあります。これはすずめのような小さなものの所にも、いやあなたの髪の毛一本にさえも、神のご配慮と摂理は働いているというのです。

   近ごろは、厳しい世界で、失業、過労、病気、老化など問題が山積しています。そうするとたいがいの人は、礼拝の方を失礼して、物質的な面にのみ目を注いでしまいます。本当にそれで、物質的な問題は解決するのでしょうか。しかし、またそれとは違って、夫が病気で入院していても、教会にかかさず来る人もいます。「すべてのものに神を求めよ」、それが今日の題です。

   ブルムハルト牧師は、最初、ゴットリービンという婦人が、精神的病に陥って、おかしな行動をし始めた時、そこにも神がいるはずだと、彼女のところに、毎日通い、ついにいやしをいただきました。私たちは、単純に二元論になって、神の領域と医学の領域と分けてしまいます。しかし、現実は、そう単純に分離できないものです。それが聖晩餐のある意味です。地上のパンとブドウ酒を通して、生ける神の言葉が示されています。神の言葉は具体的です。ただ私たちの信仰が抽象的なのです、

   「すべてのところに神を求めましょう」、その信仰のあるところ、イエスが言われた通り、「信じる者にはすべてのことが可能である」。心に堅く信じて、疑わないなら、たといその祈りの言葉は拙劣であっても、その求めることは必ずなるのです。あなたは、そのことを信じますか。たた一羽のすずめすら、神の配慮とご摂理の下にあることを忘れないようにしましょう。韓国のクリスチャンの信仰は、すべてのことに神を認めるような信仰です。日本人の信仰は、一般に二元的です。

   もちろん、信仰は実際的方法を退けたり、軽蔑したりしません。もし具体的方法を軽蔑して、信仰万能主義なら、今度は二元論の正反対、狂信主義になりかねません。神は世界を創造する際、物質をもお造りになりました。したがって、すべての物質的な手段、方法も、神のみ手にあります。それを分けてはいけません。二元論もいけなければ、狂信主義も間違いです。私たちはただしく神を信じつつ、神の備えた方法を用いるべきです。 

   しかし、もし神がどこにもおられるなら、悪いところ、最悪の事態、不幸、禍にも神はおられるでしょうか。そうです、ただし神がよいところにおられるのと、悪いところにおられるのと、その在り方が違います。悪いところにおられる時、それは悪魔、サタンの業を介して神が働きます。

   パウロは重い慢性病にかかって、
「どうかこの病を取り去ってください」
と熱心に、祈りました。しかし、その時、
「この病は、私を高慢にならせないために、神が遣わしたサタンの使いである」
と言っています。その時、パウロは、その病を通して、神のみ声を聞きました。
「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの恵みは弱いところに完全に現れる」
です。しかし、あくまで信仰に立ち続けるなら、
「み旨ねによって召された者、神を愛する者には、すべてのことが相働いて益となる」
のであります。このように神の支配とか、神の摂理とか、神の偏在と言っても、悪魔を通してさえ働く幾重にも重なった、神の配慮があるのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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