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4月17日(日)「十字架の不思議」説教要旨
  聖句
旧約 「彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」   (イザヤ53:12)
新約 「そのときイエスは言われた『父よ、彼らをおゆるしください。彼は何をしているのか、分からずにいるのです』」  (ルカ福音書23:34)
  教会の上には十字架がありますが、よく考えると、十字架は苦悩そのものです。それは「ローマ時代の最悪の刑罰です。したがって、それは苦しみだけではなく、恥じでもあり、最低の姿」です。キリスト教の中心が、十字架であるとは、この人類の苦悩の最低のものが、その信仰の内容であり、苦悩=救済が、キリスト教信仰の本質です。
 分かりやすく言えば、「あなたは苦しみを見いだすところ、そこに救いを見いだす」のです。そんな馬鹿なことがあるでしょうか。「私はこの苦しみから逃げ去りたいのだ」、それなのに、キリスト教は、その苦しみから逃れ去る道は、その苦しみの中にあると言うのでしょうか。トランプの遊びに、マイナスを全部集めるとプラスになるのがあります。十字架の救済とは、まさにマイナスを全部集めるとプラスになることです。
 礼拝堂の正面の十字架を、教会の隣りのインテリアに作ってもらった時、その人は信仰に何のかかわりもない人なのですが、「非常に光栄だ」と言って、一生懸命調べて、丁寧な仕事してくれました。何か不思議な気がしました。
 何の宗教も信じていない人が、十字架の作製をものすごく光栄に思い、そこには敬虔な信仰感情さえ感じられます。反対にもしそれがキリスト者のインテリアだったら、十字架に慣れっこになっているから、特別な感情はもたなかったと思います。この未知な人をも動かす、不思議な十字架とは、何でしょうか。
 今、十字架のイエスは、 「父よ、彼らをおゆるしください。彼は何をしているのか、分からずにいるのです」 と祈られます。十字架のシンボルを作製したインテリアは、十字架の深い意味まで知りません。しかし、敬虔な気持ちはもっていました。それは、イエスを十字架につけた人びとの「無知」とは違います。十字架につけた人びとんの無知は、自分の罪を知らない無知でした。しかし、木の十字架を作製した人も、イエスの十字架の意味については無知でした。それは幼子のような無知かも知れません。
 ここには二つの「無知」があります。しかし、ここにもっと驚くべき無知があります。それは十字架のイエスが私の罪ののためにも、あなたの罪のためにも、ゆるしを祈っているのに、そのことを知らない無知です。この第三の無知とは、自分の罪と、そのためにゆるしを祈られていることについての無知です。
 確かにキリスト者なら、「われらの罪をゆるしたまえ」と祈るに違いありません。けれども、そのゆるしは、人類の罪を負う十字架と結びついているでしょうか。確かに十字架のシンボルとは結びついているかも知れません。しかし、最初に言ったように「よく考え見ると、十字架は苦悩そのものです。ローマ時代の最悪の刑罰です。したがって、それは苦しみだけではなく、恥じでもあり、最低の姿です」と言った意味が分かっているでしょうか。十字架は人類の苦悩と結びついているのです。この人類の苦悩を十字架に負われたお方の苦悩と死によって、あなたはゆるされたのです。そのことと、私たちのゆるしの祈りとは結びついているでしょうか。
 私たちには、当時イエスを十字架につけた人びとの無知はありません。また十字架のシンボルを作製した人の幼子の無知もないでしょう。けれども、そこには第三の無知がないでしょうか。つまり、キリスト者に十字架を作製させたら、慣れっこになって、そんなに真剣には作らないでしょうと言ったと同じように、十字架が単なるシンボルになって、そこから血が噴き出ていない無知というものが、私たちの中にないでしょうか。
 慣れっこの無知。それが私たちの信仰の無力さではないでしょうか。十字架が「不思議」ではなく、「普通」になっているのです。普通になったら、それはたとい十字架のかっこうはしていても、本当の十字架ではありません。あくまでも、十字架は「不思議」でなくてはなりません。マイナスを全部集めたプラスでなくてはなりません。この逆説、パラドックスがなくてはなりません。それでなければ、真のイエス・キリストの十字架ではなく、木でできた、十字架のシンボルにすぎません。
 私たちは、十字架のシンボルで救われるのではありません。慣れっこになった十字架で救われるのでもありません。真の救いは、もっと深いところにあるのです。十字架がローマの最悪の刑罰であった。その刑罰を罪のないお方が受けられた。そこで血を流された。その苦悩は、人類の苦悩であります。それは「神の痛み」なのです。第三の無知は、この「神の痛み」に対する無知であります。「彼らすべての悩みの時、主も悩まれて、そのみ前の使いをもって、彼らを救い、その愛とあわれみとによって彼らをあがない、いにしえの日、つねにかれらをもたげ、彼らを携えられた」のです。
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ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。 |
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