2011年4月24日(日)イースター礼拝説教「 新しいいのち 」
説教:蓮見和男

   

           聖句
旧約
 「見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたは、わたしが主であることを悟る」  
(エゼキエル37:5-6)


  新約
 「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」  (ヨハネ20:29)


   地震・津波・原発、今日、その死者の多さに驚嘆し、恐れ、心配し、そればかりか、私たちの身近かにそのように愛する者を失った人がいる時、その人に慰める言葉を知りません。ドイツではもっと恐るべきことがありました。ヒトラーのユダヤ人殺害は、子供も年よりも区別なく六百万と言われる死者、これにまさる悲劇は、これまで歴史上にないでしょう。

   ヘロデの幼児殺戮の時、
「叫び泣く大いなる悲しみの声が、ラマで聞こえた。ラケルはその子らのために嘆いた。子らがもはやいないので、慰められることさえ願わなかった」(マタイ2:18)
死者の多さではない。一人でも愛する者を失った人をどのような言葉で慰めるのでしょうか。

   ふつう日本では、「お悔やみ申し上げます」とです。「お悔やみ」を辞書で引くと、「すんでしまったことを、ああすればよかったなどと残念に思う」、「後悔する」、「死をおしみ悲しむ」。つまり日本語では、愛する者を失った人を慰める言葉は「後悔する、残念に思う」と同じ言葉です。それは本当に慰めになるのでしょうか。  ドイツ語には、とてもいい言葉があります。「タイルネーメン(一部を引き受ける、参加する)」と言います。あなたの悲しみ、苦しみの「一部を引き受けたい」というのです。仏教では、「生をあきらめ、死をあきらめるは、仏家一大事の因縁なり」。それは「生・老・病・死」、この事実を直視する、「悟りをひらく」ことで、それは「賢者の宗教」です。

   しかし、聖書の使信は、「新しいいのち」、「永遠のいのち」です。この世の生命のほかに、もう一つ真実のいのちがある、「あなたのお子さんの命は失われたけれども、それはこの世の小さな短いいのちで、そのほかにもう一つ神さまのくださる命があります」。それは「新しいいのち」、「永遠のいのち」です。使徒信条は、「永遠のいのちを信じる」で終わっています。イエスは、兄弟ラザロを失った、姉妹マルタに
「われはいのちなり、よみがえりなり、われを信じる者はたとい死んでも生きる」(ヨハネ11:25)
と言います。「復活の信仰」、これ以外に慰めの道はない。万物を無から創造された全能の神は、その死んだ者を新しくよみがえらせることができるのです。次第に日本人はそういう方向に来ています。宗教に関係ない人が「お父ちゃんは、天国にいる」とか、「天国で会いましょう」と言います。つまり明確ではありませんが、普通の人が、うすうす信じているのは、「新しいいのち」です。だから「天国」というのではないないでしょうか。

   ただキリストの復活の信仰は、その前に十字架の苦難がある点、普通の人の「天国信仰」と違っています。復活祭の二日まえに受難日があり、復活した方の、手には十字架の傷あとがあったのです。イエスはトマスに言われました。
「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさしいれて見なさい」
新しい、永遠のいのちは、この世の古いいのちと無関係ではありません。死んで、再び新しく生まれるのですが、その新しいいのちには、古い短いいのちと連続があるのです。よみがえられたお方は、一度十字架に死んだお方にほかなりません。十字架の苦しみなしに復活はありません。救いは十字架を越えてあるのです。「新しいいのち」は、十字架の苦難を乗り越えてあるのです。
「彼らすべての悩みの時、主も悩まれて、そのみ前の使いをもって、彼らを救い、その愛とあわれみとによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた」(イザヤ63:9)


   トマスは実証主義者でした。復活したと聞いた時、自分はそこに居合わせませんでした。それで十字架の傷あとを見、その脇腹に手を突っ込んで見なければ信じないと言いました。つまり今で言えば、トマスは、科学的実証主義者でした。しかし、実証主義では、私たちの生が「どこから来て、どこへ行くのか」が分かりません。したがって「人生の意味」をはっきりさせることができません。

  トマスは、復活の主に出会って、実証したでしょうか。否、キリストの復活の事実の前に、ひれ伏し「我が主よ、我が神よ」と言ったのです。それは向こう側から来る真理にほかなりません。私たちの人生には、実証して分かることと、そうでにこととがあります。「もし死で終わるなら、この短い生命に何の意味があるのか」、これらすべてに答える解答が、復活です。それは「新しいいのち」、「永遠のいのち」です。あのアウシュヴィッツで、戦争が終わった時、「このような恐ろしいことを経験したからには、この世で神以外に恐るべきものは何もあないという不思議な感情が人びとを支配しました」(フランクル)。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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