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5月22日(日)「 宗 教 の 平 野 」説教要旨
  聖句
旧約 「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する。わたしは主である。すべてこれらのことをなす者である」   (イザヤ45:7)
新約 「しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまである」  (ルカ15:32)
 私たちの全生活は、およそ三つの平野(領域、地平)に分けられます。
 第一は「自然の平野」です。私たちが生まれおちることは、自然です、それは動物にもあります。そして自然の平野は広範ですが、これには限界がつきまといます。たとえば生まれることは、死を意味します。またこの度の地震や津浪にしても、自然の地平は、限界があり禍がつきまといます。しかし、これが自然の地平の本質です。自然は恵みを与えますが、同時に自然の禍をももたらします。イザヤの言葉に「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する」 とあるように、自然の世界は、光と共に闇があります。繁栄と共に禍が来ます。
 自然科学や科学技術も、自然の地平での出来事です。これらは、人を豊かにし、生活を便利にしますが、同時に原発のように災害ももたらします。これが自然の地平の限界です。また「放蕩息子のたとえ」の弟息子は自然の欲望むきだしです。父親の生きているうちに、遺産相続を要求し、放蕩に使ってしまいます。
 このようにむきだしの自然の人間は、欲望のまま生きて、生を破壊してしまいます。このような放縦が、横行しないように、人間は自然に規制を加え、「盗んではならない」等、良心に訴えて道徳を作ります。道徳には根本的に人間を強制する力はありませんから、国家と法律をつくり、さらに警察力を動員します。
 こうして、「自然の平野」対して、「道徳・法の平野」が作られます。放蕩息子のたとえの兄息子が、この法と道徳の代表です。弟息子が財産を放蕩に持ち崩したことは、ゆるしがたい犯罪だ、罰しなくてはならないと言います。この道徳の代表の原則は、理性、合理性であり、人間関係の調和と安寧秩序です。
 ところが父親は、放蕩息子をゆるすどころか、大ごちそうしをします。このことを「道徳の平野」にいる兄息子はゆるせません。この地平は、「理性や精神の地平」でもありますが、不法に対してはきびしいさばきをもって臨むのです。人を殺すことはあっても生かすことはありません。
 しかし、ここに「自然の平野」とも「道徳・法の平野」と違った、全く新しい地平が現れます。それが「宗教の平野」です。それは今、放蕩息子の父親に現れています、
 その中心は愛です。しかし、「自然の平野」にも、「道徳の平野」にも、愛はあります。おそらく放蕩息子も、異郷の地で、だれか女の子が好きになり、金をつぎこんっだのかもしれません。それもラブには違いありません。しかし、信仰の見地から見ると、それは宗教の地平における愛、アガペーではありません。神の聖なる愛ではありません。自分の欲望の発揮でしかありません。「惜しみ無く愛は奪う」という、自然の愛(エロース)です。
 道徳の地平でも、愛はあります。親が子を愛したり、教師が生徒を愛したりするのですが、期待がはずれると怒りに変わる点、「自然の地平」と似ています。
 宗教の地平は、父親に現れています。放蕩息子をまだ遠く離れている時、認めて自分の方から出て行って、愛し、ゆるし、最大の喜びを表すのです。「しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまである」 という言葉が示している通り、それは生命への無限の愛であり、罪に対するゆるしであります。そこには条件はありません。道徳や法の地平での愛は、いつも条件付です。しかし、神の愛には条件はありません。「取税人、罪人の友」(マルコ2:15) なるキリストの姿、また十字架の上の盗賊に示したイエスの愛(ルカ23:43)は、その神の愛の姿を示しています。
 宗教の地平にはパラドクス(矛盾)があります。「罪の増すところ、恵みもいや増す」(ローマ5:20) また「死からの復活」、そのパラドクスが、宗教の平野の生命です。それは、光だけでなく闇をも包み越えています。「光は闇の中に輝いている。そして闇はこれに勝たなかった」(ヨハネ1:5) 「闇はわたしをおおい、わたしを囲む光は闇となれとわたしが言っても、あなたには、闇も暗くはなく、夜も昼のように輝きます」(詩編139:12) 幸いだけなら、自然の地平でも求めます、しかし、宗教の地平では、禍をも越えた、新しい世界を示します。「神を愛する者には、すべてのことが働いて益となる」 そしてまさに十字架の信仰、これこそパラドクスの最たるものです。全く善いお方が、罪人の罪を引き受け、すべてをあがなってゆるす。
 こうしてルターの言ったように、私たちは「全く罪人にして、同時に全く義人」なのであります。宗教の平野、そこには「永遠」があるのです。その永遠はただこの私たちの自然の時間と異なるだけではなく、私たちの「時間」を包み越えてある永遠です。罪をも包み越えている愛です。「兄弟よ、罪の前にたじろいてはなりません。ただ罪のままを愛しなされ。これこそ神の愛に似たものです」(ドストエフスキー)。
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