5月29日(日)「家 族 の 心 理」説教要旨

           聖句
旧約
 「人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」  
(創世記2:24)


  新約
 「イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、イエスに話そうと思って外に立っていた。それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたと話そうと思って、外に立っておられます」。イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とはだれのことか」。そして、弟子たちの方のてをさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」  (マタイ12:46-50)


  家族というのは、まず第一に夫婦です。人間は男と女が、互いに一つになって初めて、子供ができ、家族ができるのです。聖書では、
「神はご自身に似せて人間を造り、これを女と男に造られた」(創世記1:27)
とあります。互いに違う者が愛において一つとなる、この点が、父・子・霊の三位一体の交わりの神に似ているのです。この夫婦から、新しい子供が生まれます。すると親子になります。そこにも神の似像があります。すなわち、父なる神、子なる神です。母はどこにいるのでしょう。それは聖霊です。つまり聖書では、神さまが、家族構成でなり立っています。

  夫婦とは、全く生まれも育ちも、性格も違う者同士が一つになるのです、しかも決定的相違は、男、女という性の相違です。「違う」ことは、反発を意味すると考えるのは違います。もし自分と全くよく似ている人に出会ったなら、私たちは耐えられないでしょう。磁石の南極と北極が引き合うように、違うから引き合うのです。 大切なことは、「相違の中の一致」です。同じ者同士は、かえって反発しあいます。相違があって初めて面白く付き合えるのです。 

  夫婦においては、男女という決定的な違いのほかに、性格の相違があります。ゆっくりした性格もあれば、せわしない性格もあります。しかし、性格は、男女のように決定的なものではありません。まず性格には反面があります。ゆっくりした人はぐずだとも言われます。せわしない人は、やり手で何でもてきぱき処理するとも考えられます。また性格は、変化します。若い時と現在で随分性格が変わったと思いませんか。私たちは人の性格を決めてしまってはいけません。時間と共に変わるのです。他人の性格のよい面を見いだすことも、大切な交わり方です。

  次に育ちの違いが、案外大きいのです。貧しくつつましく育った人と、裕福におうように育った人では違います。音楽家の家に育った場合と、商売屋で育った人では全く違います。過去は変えることができませんが、それは互いの交わりの中で、調和してゆく、「琴瑟相和す」のです、違った楽器、低音部と高音部が、互いに調和するように。その時、モノトーンよりも複雑ですばらしい音がでるのです。

  夫婦から子供が生まれ、親子の関係ができます。下に向かって親子関係もありますが、上に向かって親子もあります。そもそも、自分たちは、親から生まれたので、夫婦二組の親子関係があります。すると姑との関係も親子関係から派生したものです。家族親族の関係には、性の関係が微妙に働きます。夫婦の場合、初めからそれを意識して付き合っていますが、親子や姑嫁の関係になると、あまり性的なことは意識していないかも知れません。

  しかし、男親と娘は特別な関係です。また女親と息子も特別な関係です。心理学で言うと、エレクトラ・コンプレックスが働きます。男性同士の関係がうまく行かず、女性同士の関係もまたうまくゆかないことが多くあります。嫁と姑がうまく行かないのもその一例です。

  一代飛び越えて、孫に対しての問題は、また親子とも違います。孫の場合、養育の責任がありません。ただ可愛いの一語につきます。その場合、養育の責任はないのですから、養育や教育のことに口を出したり、おせっかいを焼いたりしてはいけません。養育のことは、孫の父母にまかせなくてはいけません。飛び越えての口出しは、教育者が二通りでき、本人は迷惑するでしょう。 

  さて聖書に戻りましょう、
「神に似せて、男と女に造られた」
ことは、相違の中の一致、一致の中の相違でした。しかし、創世記には、もう一つの箇所があります。
「人は父母を離れて二人の者一体となるべし」(2:24)
「父母を離れて」とあります。子離れしない親、親離れしない子というのがあります。それは養育が終わって、新しい成人ができたのに、いつまでも自分の枠の中においておきたい人間的な関係です。この「離れて」ということが大切です。いっぺんに離すのでなく、幼年期から少年期、さらに青年期と一歩一歩離してゆくのです。そして完全に成人化したら、完全に離してしまう。

  しかし、その場合でも、見えない糸でつながっていなくてはなりません。見える縄でぎゅぎゅう縛るのでなく、完全に離してしかも、見えない糸でつながっていることは、難しいことです。しかし、それが本当の愛情です。

  今日の新約聖書のほうに、
「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」
とあります。天います父を中心にした、新しい兄弟姉妹関係、それが信仰の関係です。肉親の情をもちつつ、なおこの新しい兄弟姉妹関係が構築されねばなりません。というのは、ただの人情関係だと、気にいらない時、怒りに変わります。

  その時、このキリストを中心とした新しい関係が、私たちの人情的つながりを救います。つまりアガペーの愛が、エロースとしての自然の愛を救うのです。家族関係のつなぎは、全部エロースとしての愛情です。そこには自然のもつ限界があります。しかし、そこでこそアガペーの愛が力を発揮するのです。それはゆるしの愛であります。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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