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6月5日(日)「この世のものに負けてはいけない」説教要旨
  聖句
旧約 「あなたのなすべき事を主にゆだねよ。そうすれば、あなたのあ計るところは必ずなる」   (箴言16:3)
新約 「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」  (ローマ12:21)
 聖書で「この世」という時、二通りの意味があります。一つは「世界、世間」の意味で、もう一つは「世俗、世俗主義」の意味です。初めの「世界」の意味なら、キリスト者は、この世に入って行き「世のために」生きなくてはなりません。しかし、「世俗、世俗主義」の意味なら、世俗主義に屈服してはいけません。この世界に生きそこで、キリスト者としての証しを立てるには、この世界(世間)に入ってゆかなくてはなりません。
 そこで、世俗すれすれの生活をする、そこでこそキリストが不思議と生きるのです。世界と世俗は画然と分けられません。イエスは、世俗を超然として、きよく生きていたのではなく、むしろ、「取税人、罪人の友」となり、律法に違反し、「罪人と交わり、大酒を好む者だ」と言われました。キリストの生涯は、世間と世俗のぎりぎりの線上にありました。キリスト者の場所もそこです。
 パウロは言っています。「わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、それは、この世の不品行な者、貪欲な者などと全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる」(Ⅰコリント5:9-10) 私たちはキリスト教的パリサイ人になるのでなく、福音に生きる者となるのです。「私たちは肉にあって歩いているが、肉に従って戦っているのではない」(Ⅱコリント10:3) この世に生きているが「肉(世俗主義)」にしたがっているのではないのです。
 この世に負けない事は、今日の二つの聖句から学べます。「あなたのなすべき事を主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計るところは必ずなる」 「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」 第一に主にゆだねることです。後のローマの箇所のすぐ前にも、「だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、出来る限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐しないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わた自身が報復する』」(ローマ12:17-19) 世俗という「悪」に対し、さらなる悪をもって対抗するなら、無限の報復合戦になるでしょう。キリスト者も世の悪のただ中で生きています。しかし、その中に悪を退治する力、すなわち「神自身の報復」が働いています。「スイスは人間の混乱と神の摂理で導かれている」。確かにキリスト者も人間の混乱の中に生きています。そして自分自身もその混乱に巻き込まれることもあります。しかし、この点が大切です。その混乱の中に、その真っ只中に、一条の細い線-「神の摂理」という線が力強く働いていることを知っているのもキリスト者です。「私たちは肉にあって歩いているが、肉に従って戦っているのではない」 だから「あなたのなすべき事を主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計るところは必ずなる」 のです。キリスト者は、その小さな手で空拳で戦うのではありません。そこで真に生きて働いているお方を知っているのです。その方は必ず最後に勝利することを知っているのです。「だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、出来る限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐しないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わた自身が報復する』」 と言うお方を知って、信じているのです。
 このような信仰は、この時代の悪のただ中にあります。決してそれから外にいるわけではありません。しかし、その悪のただ中で、神の勝利を信じています。「自ら復讐してはいけない、むしろ神の怒りに任せなさい」 とある、その任せなさいとは、原語で、「神の怒りに場所を与えなさい」となっています。つまり、今、私が、「私の自我が、自己が」立っている場所を明け渡し、「神の怒り」が場所を占めるように、神様にあなたの場所を明け渡しなさいという意味です。キリスト者だという自覚をもって生きることは大切ですが、キリスト者という自己が戦うのでなく、「キリスト者」とは、「キリストのもの」、「神の僕」であります。
 賛美歌301番、「山べに向いてわれ目をあぐ、助けはいずかたより来るか・・」で、主語は全部「私たち」ではありません。「神」です。山に向かって目をあげるのは「私」です。「助けはどこから来るか」と問うのも確かに「私」です。しかし、「助けは私からではありません。天地を造りたもう神から、助けは私に来るのです」。神に「ゆだねる」とは、そういうことです。「信仰」とはそういう行為です。
 では随分消極的だと思いませんか。違います、「ゆだねる」という行為は、敵を前にして、非常に勇気のいる仕事です。私の自我の場所を明ける行為は、大胆で、積極的でなければできません。ただその大胆な行為は、敵にぶつかって行くことから見れば、全く「逆方向」です。一歩退くのですから。しかし、それは「退却」することではありません。神の場所を明けるためです。それはとても勇気がいることです。そしてそれは、この世界に神が中心に立っていること、神は必ず事をなさることを信じている、信仰の勇気と大胆さがなくてはできないことです。
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