2011年6月12日(日)ペンテコステ礼拝説教「この世のものに負けてはいけない」
説教:蓮見和男

   

           聖句
旧約
 「その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし、主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞こえた」  
(列王上19:11-12)


  新約
 「五旬節の日が来て、みんなのものが一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたうような音が天から起こってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろ他国の言葉で語り出した」  (使徒行伝2:1-4)


   神はどこにいて、どのようなお方か、こういう疑問が起こる時があります。父なる神の特徴は、「見えない、隠れている」ことにあります。見えないから「いない」とは言えません。この世の中で、「見えない」けれども確かにあるものはいくらもあります。アメリカに行ったことのない人には、アメリカは見えませんが、確かに存在します。しかし、「アメリカの存在はアメリカから来た人によって証明されている」と。

  神の存在も、神からきた人によって証明されるのです。それがキリストです。神ご自身が現れて人となられたのです。けれども「どうしてイエスが、神ご自身なのか。二千年前にパレスチナにいた方が、二千年後の私たちには、その声を聞くこともできない。どうしてキリストが神ご自身であることを証明するのか」と言います。

  皆さん、それが聖霊です。それは私たちの中に働き、私たちの中に生きておられる神です。「聖霊は、私たちを有効的にキリストに結ぶ帯び」だと、カルヴァンは言いました。

  聖霊の第一の機能は、「知らせる」、それで聖霊は
「真理の御霊」(ヨハネ14:17)
と言われています。イエス・キリストが神であると知らせるのです。

  第二は、とりなしです。
「私たちはどう祈ったらよいか分からない時、御霊自ら言いがたき嘆きをもって、とりなしてくださる」(ローマ8:26)
どう祈ったらよいか分からないとは、ただ祈りの方法のことではありません。苦悩の大きさです、あまりにも苦しみが大きく、祈ることもできないのです。その時、聖霊が言いがたい嘆きをもってとりなしてくださるのです。

  もう一つは、第三に「御霊の交わり」です。礼拝の最後に祝福で「聖霊の交わり」と言います。聖霊は、父・子・霊の交わりであると共に、私たちと神との交わりであり、同時に私たち互いの交わり基でもあります。人間とは「人の間」書きます。関係性です、今日コミュニケーションが盛んです。その交わりは、何が結ぶのでしょうか。まさに聖霊です。私たちのコミュニケーションで最大のものは、他者へのとりなしです。それはまさに聖霊の業そのものではないでしょうか。

  では、その聖霊はどのようにしていただけるのか、聖霊は、私たちの所有にはなりません。「聖霊を所有しようと思うな。聖霊があなたを所有しておられる」(テン・ブーム)。ちょうど手紙を誰かからもらって、それが私の机の引き出しにあると言ったものではありません。それはたえずその時、その時にいただかなくてはなりません。しかし、「ください」と求めれば、与えられます。私たちに息は、空気としてまわりにあるのですが、毎瞬毎瞬、息を吸わなくていけません。 

  モルトマンはスコットランドの捕虜収容所の時のことを記しています。「ある日、私たちの収容所に、好意的な軍附属のチャプレンがやって来まて、聖書を配りました。毎晩私は、その書をあまりよく分からないながらも、読み続け、旧約聖書の嘆きの詩編にまできました。詩編三九編は、とりわけ強く、私を捕らえて離しませんでした。
『私は黙して物言わず、苦しみをわがうちに呑み込んだ。私の一生はあなたの前では無にひとし  い・・・主よ、私の祈りを聞き、私の叫びに耳を傾け、私の涙を見て、もださないでください。  私は、あなたに身を寄せる旅人、わがすべての先祖たちのように寄留者です』


  この言葉は、私の魂に語りかけました。私の魂は、神に向かって叫びました。それは、私に、突然のひらめきを起こしたのではありません。しかし、私は、毎晩この御言葉に戻ってきました。それから、それとの関連でマルコ福音書を読み、受難物語に来ました。
『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』
という、イエスの死の叫びを聞いた時、私は、沸きあがる確信を覚えました。『ここに、あなたを完全に理解している人がいる、あなたの神への叫びに唱和し、今あなたが立っている、同じ見捨てを感じている人がいる』と。私は、試みを受け、見捨てられたキリストを理解し始めました。なぜなら、私は、彼によって理解されていることを知ったからです。『苦しみのただ中での神の兄弟、あなたと共に、この死の陰の谷をゆく道連れ、あなたを、あなたの苦悩もろとも担う苦悩の友』。こうして私は、再び生きる勇気を得ました。そして序々に、しかし確実に、『もはや苦しみのない神の広い空間』によみがえる大いなる希望が、私を捕らえました。またこのキリスト認識は、突然、不意に訪れたのではなく、私にとっていよいよ重要なものとなり、そして私は繰り返し受難物語を読むようになったのです」。 

  これが聖霊経験であり、聖霊の交わりです。それには、しかも、特別な資格はいりません。どこの大学とか、こうゆう性格の人は、聖霊をいただき安いということはありません。捕虜収容所でもかまわないのです。誰でも求める人は与えられます。
「求めよ、さらば与えられん。・・・あなたがたのうちで父である者は、その子が魚を求めるのに蛇を与えるだろうか、卵を求めるのにさそりを与えるだろうか。このようにあなたがたは悪い者であっても、自分の子供には良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めてくる者に聖霊をくださらないことがあろうか」(ルカ11:11-13)
 
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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