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7月3日(日)「 絶望し慰められる 」説教要旨
  聖句
旧約 「あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしを支えられます。やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれとわたしが言っても、あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには、やみも光も異なることはありません」   (詩編139:10-12)
新約 「わたしはあなたを立てて多くの国民の父としたと書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望みえないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、あなたの子孫はこうなるであろうと言われているとおり、多くの国民の父となったのである」  (ローマ4:16-18)
  「絶望」という言葉は、聖書にありません。ただ「希望がない」という否定の形ではあります。アブラハムの信仰を語る時にも、「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望みえないのに、なおも望みつつ信じた」 と、「望みがない」と否定形で表現しています。しかも否定形で表現した「望みがない」は、あたりの状況であって、信じる者自身の心ではありません。アブラハムのおかれた状況が、「望みえない」状況だったのです。アブラハムは、この「望みえない状況の中で、なおも望みつつ信じた」のです。
  アブラハムが信仰の父と呼ばれるのは、彼の信仰が絶えず望みに満ちていたのではありません。そういう心の姿は、どんな人間でも、望むべくもありません。希望とは、そういう都合のよい状況をいうのではありません。聖書で希望というのは、信仰であります。都合のよい状況で信じたり望むのなら誰にでもできます。信仰とは、望みえない状況の中で、起こることなのです。
  しかし、さらに詳しくアブラハムの信仰を考えてみましょう。「アブラハムはその信じる神、死人を生かし、無いものを有るものとして呼び出される神の御前で、私たちすべての者の父となったのです」 アブラハムの信じた神は、無から有を呼び出される神でした。律法主義というのは、「1足す1は2」ということを信じているのです。それならどこに信仰がいるでしょうか。それは常識の延長のようなもので、信仰も単なる「可能な可能性」になってしまいます。そのような常識の延長なら、信仰はバイタリティーを失います。
 アブラハムが信仰の父と呼ばれているのは、私たちの持っている信仰ではなくて、私たちの持っていない姿、「無きがごとき姿」の中での信仰であります。それは自分が空しいのですから、持てない信仰です。
 子供にこういう信仰を伝えたいなどというと、伝わりません。私たちが何も持っていない時、信仰は最もよい状態にあるのです。私たちが何も持っていない時、教育はうまくゆき、恋愛も夫婦関係も同じです。反対に、私たちが持っている時、たとい持っているのがよい行いでも、正しさでも、私が持っている時、うまくゆきません。それはイエスの言われた「自分の義」で、神からいただく義でないからです。
 アブラハムの信仰は、「無い信仰」でした。それは「空洞」でした。信仰は、「無い」時が一番すばらしいのです。しかし、本当に何もないのでしょうか。いいえ「望み」があるのです。
  アブラハムは望みがない時、望みつつ信じたとあります。それは「望みに逆らって、望みつつ信じた」のです。真の希望は、願望とか期待とは違います。願望や期待は、私たちが持っているものです。真の希望は、私たちの中に何もないのです。
 今聖書の語る望みは、死人を生かし、無から有を呼び出される神からのものにほかなりません。それは全く新しいことを私たちの中に呼び起こします。アブラハムは自分のからだが死人のようになり、妻のサラも年老いて行きます。創世記には、妻サラは「私は衰え、主人もまた老人であるのに、私に楽しみなどありえましょうか」 と言って、御使いの言うことを信じないで笑ったとあり、アブラハムも実際は弱ったのです。けれども同時にアブラハムには、「しかし」が、神の持つ偉大な「しかし」が与えられています。信仰は、この「神のしかし」です、「にもかかわらず」といてもよいです。
  私たちにとって、きわめて重要なことは、この「神のしかし」によって行われるのです。たとえば皆さん、こんどの大地震が起こることを、その5分前でも、誰が信じていたでしょうか。ドイツの壁の崩壊を誰が信じていたでしょうか。私の友人は長年ドイツにいながら信じないで、日本に帰り、成田空港で「壁崩壊」を聞き、すぐドイツとって返しました。本当の出来事は、このように、誰も信じられないような仕方で来るのです。「無から有を呼び出される神」とはそういう神です。その神によって、私たちは「絶望しつつ慰められる」のです。
  絶望は聖書にない言葉です。とすれば絶望する人間は、信仰の人ではなく、世俗的人間でしょう。世俗の人は、簡単に絶望します。しかし、「神のにもかかわらず」は、そのような人にも働きます。私の友人は、そのことを信じないで日本に帰った時、世俗的人になっていたのです。しかし、その人にも神の出来事は起こるのです。絶望して慰められるとは、そういうことです。絶望するとは、世俗的ことです、しかし、絶望の中で慰められることは、決して世俗的なことではありません。それは神の業です。アブラハムの信仰は二重です。笑ったサラは、まさに世俗的人間です。アブラハムもそれに劣らず世俗的人間でした。
  ところが、その世俗的人間に、「神のしかし、にもかかわらず」が起こりました。アブラハムはこの神のしかし、もう一つ越えた「にもかかわらず」を信じたのです。世俗的人間をも救う神を信じたのです。というより神によって「信ぜしめられた」のです。それは神の向こう側にほかなりません。ですからあの人が偉い、この人は信仰深いのではありません。全く偉くない、信仰も深くない、あたりまえの人が、神の向こう側によって変えられるのです。つまり「絶望しつつ慰められる」のです。
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