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7月10日(日)「 交わらない交わり 」説教要旨
  聖句
旧約 「友はいずれの時にも愛する。兄弟はなやみの時のために生まれる」   (箴言17:17)
新約 「神と交わりをしていると言いながら、もしやみの中を歩いているなら、私たちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。しかし、神が光の中にいますように、私たちも光の中を歩くならば、私たちは互いに交わりをもち、そして御子イエスの血が、すべての罪から私たちをきよめるのである」  (ⅠヨハネⅠ:6-7)
  「人」という字は、長い棒と短い棒が、支え合ってできています。二つは、長いと短いの違がありますが、他を支えている点では同じです。人間も、一人で生きるのではなく、必ず他者と共に生きています。何らか他人の恩恵を受け、支えられており、自分も弱いながらも他を支えています。
  しかし、この支え合いは、いつでもあるという保証はありません。私たちの罪のため、支え合いが壊れることもしばしばあります。その場合人間の交わりは、「交わらない交わり」です。
  ところが、もう一度別な見地から「人」という字を見ると、「一人の人間が両足を広げて立っている姿」ともとれます。しかし、よく見るとそこに手がありません。信仰的に見ると、その手は、前に組んでいる、つまり祈っている姿なので見えないのでしょう。初めの二つの棒が支え合っている人間の交わりが、いつまでも支えられるためには、祈りが必要です。人間同士の交わりには、神との交わりが必要です。
  創世記には、「神はご自身の姿に似せて人を造った。すなわち神のかたちに創造し、男と女に創造された」
とあります。神の似像とは、人が男女の交わりの中に造られたことです。神ご自身が父・子・聖霊の交わりの中にあるように、その神の交わりが、私たちの交わりを支えているのです。
  今日の聖書は、そのことを裏付けています。「神と交わりをしていると言いながら、もしやみの中を歩いているなら、私たちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。しかし、神が光の中にいますように、私たちも光の中を歩くならば、私たちは互いに交わりをもち、そして御子イエスの血が、すべての罪から私たちをきよめるのである」
またイエスは「あなたの敵を愛せよ」
と言い、さらに「あなたを迫める者のために祈れ」
と続けます。私たちが人間愛、兄弟愛と言いますが、それも実はすぐに敵対関係に変わります。その時、「あなたを迫める者のために祈れ」 まさに人間の交わりの破れたその時、修復の道は、神への祈りであります。交わりでいけないことは、自分が交わりたい、したがって自分が好むように交わりたいと考えることです。すると相手の立場に立って考えると、そのような交わり方はしたくないかも知れません。私たちは交わりにおいて自分中心です。その自分中心を変えられなければ、本当の交わりはできません。そのため、神との交わりを始めなくてはならないのです。
  マルチン・ブーバーというユダヤの哲学者は、「私と汝」という関係が、人間の根底にある、根源語であると言います。それが「私とそれ」になる時、物の世界に入るのです、その交わりはうまくゆきません。そこでは人間と人間との根本的関係を見失うと言っています。現代社会の根本問題は、この「私と汝」という根本的なものが失われて、いつの間にか「私とそれ」になっているのではないでしょうか。
  それは機械文明の末路です。コンピューター社会は、すべての関係を数におきかえます。つまり「私と汝」を「私とそれ」に変えてしまいます。その時、ニヒリズムが横行すると言われます。「私がひとりの人間に対して、私の汝として語りかける時、その相手は物のうちの一つではなく、その人間はほかのもろもろの彼、彼女と隣接している彼女や彼ではなく、空間時間のなかの一つの点ではありません。そこには汝と呼ばれる人間が存在しているのです。むしろすべてがその汝の光の中で生きるのです」(ブーバー)。
 人間とは人の間と書くではありませんか。関係の光、神の父子聖霊の関係の光の中に、他者を見ましょう。その時、交わりはうまくゆくのです。今日の聖書では、「御子イエスの血が、すべての罪から私たちをきよめる」のです。
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