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10月9日(日)「神の友」説教要旨
  聖句
旧約 「友はいずれの時にも愛する、兄弟は悩みの時のために生まれる」   (箴言17:17)
新約 「人がその友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない。あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたをわたしの友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆あなたがたに知らせたからである」  (ヨハネ15:13-15)
  神は父で、私たちはその子です。しかし、ヨハネではキリストは私たちを「友」と呼んでくださいます。ふつう私たちの「友人」には段階があります。本当に親しい「刎頚[ふんけい]の友」とは、その友のためなら「首をはねられても、いとわない友」という意味です。聖書で言えば、「人がその友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない」 に当たります。でもそんなすごい友達関係が私たちの中にあったとしても、ごくまれでしょう。おしゃべりする相手としての友達、これは比較的低い段階の友達かも知れません。さらに深くなれば、本当に自分のことが何でも話せ、いざ困ったことが起きた時、そこへ飛んで行く友達、これは深い親友で、この二つの中間もあります。
  しかし、今キリストが、私を「友達」と呼んで下さる、その時、「人がその友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない」 言われました。それは私たちのの最高段階の「刎頚の友」です。なぜなら、キリストは事実、私たちのために、「自分の命を捨てられたのですから」 賛美歌332番に、「主はいのちを、あたえませり、主は血潮をながしませり、その死によりてぞ、われは生きぬ。われ何をなして、主にむくいし」とあります。前半「主は私のためにいのちまでも捨てられた」、これは分かります。しかし、後半の「私は主のために何を捨てたか」はどうでしょう。多分多くの答えは、「私は主のために何も捨てていません。主のいのちの救いを、ただでもらい、ただで受けているだけです」でしょう。しかし、その賛美歌の三番に、「主はゆるしと、いつくしみと、救いをもて、くだりませり、ゆたけきたまもの、身にぞあまる、ただ身と魂とを捧げまつらん」とあります。
  そこである仮定の話をしましょう。私のいる建物が火事になり、私は炎に包まれて逃げ出せない。その時、友人が火の中に飛び込んできて、自分を炎から救い出してくれた。しかし、ほんの2、3秒違いで、その建物が火で崩れ落ちて、友達は死んでしまった。もし皆さんが、その救われた人だったらどうでしょう。あなたの人生は、その時から一変するのではないでしょうか。まず「あの友達にすまない」という感情、次に「彼の死を無駄にしたくない」、そして「私は自分の残りの人生をあの時死んだつもりで、他者のために生きよう」とするのではないでしょうか。
  そこで皆さん、私を救うために焼け死んだ友人、それはイエス・キリストです。このキリストの救いにあずかった私は、どうしますか。「主は私のために命を捨てた。私は主のために何を捨てたか」。「はい、何も捨てていません。ただ感謝して、その恵みを受けるだけです」とだけは言えません。かといって「私はこの身も魂もささげます」とも言えません。すると私たちの態度は、その中間です。「私は主が私にしてくださった何万分の一でもいいから、出来る限りこの主にお報いしよう」でしょう。
  私の経験をお話いたします。茅ヶ崎時代、ただ「伝道、伝道」でやってきました。ある時、日本基督教団の議長の名で、「ベトナムの子に薬を送る運動」の募金がありました。しかし、残念ながら、これまで教会中心、伝道中心で来たため、そういう他者のための愛の奉仕をする態勢になっていませんでした。私は深い反省をしました。確かにキリストを宣べ教えることは、大切な一番大事なことに違いありません。しかし、そのキリストは、「人がその友のために命を捨てること、これほど大きな愛はない」 言われました。信仰には愛の面があるのではないか。そこで仙台に行ってからは、そういう利己主義的教会を作ることはやめようと思い、毎週報に、「教会は人数の多さや経済力の多寡ではない、隣人ために生きる時、教会は真の教会である」という言葉を載せて自戒としました。ところが今度はやり過ぎて本職がおろそかになってきました。
 私が知ったのは、イエスは「私たちを友」と呼んでくださった。とすれば、イエスは、いつも私のそばにいてくださるお方だ、この方に聞く、「イエス様、このことは今私がすべきことでしょうか」と。イエスはマルタに言われました「マルタよマルタよ、あなたは多くのことで思い煩っている、しかし、なくてならないことは多くはない、いやただ一つだけだ」 。そうです、今私がしなくてはならないことはたった一つなのです。やたらにやりまくるのは、それはキリストへの信仰でも愛でもない、パウロは言います「たといまた私に予言する力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。」(Ⅰコリント13:1以下) こうして苦労と努力の末、「本当のもの」に目覚めました。いまここでイエス・キリストに命じられていることは、ただ一つ、人間は一時に一つのことしかできない。では何がその一つか、それは深い祈りのうちに決められるでしょう。私が今できる最高のことをして、私を「友」と呼んで下さり、この私のために死んでくださったお方のために、報いよう。今日の旧約に「友はいずれの時にも愛する、兄弟は悩みの時のために生まれる」(箴言17:17) とあります。兄弟は悩みの時に生まれるとは、阪神淡路のこと今度の大震災のことを考えて見てください。あの悩みの時、兄弟姉妹の連帯と愛が生まれたのです。悩みの時の友は真の友です。イエス・キリストこそ、その友の最高のものです。
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ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。 |
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