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10月16日(日)「信頼と行動」説教要旨
  聖句
旧約 「わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、わたしの足を岩の上におき、わたしの歩みをたしかにされた。主は新しい歌をわたしの口に授けられた。多くの人はこれを見て恐れ、かつ主に信頼するであろう」   (詩編40:1-3)
新約 「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれたいる喜びのゆえに、恥じをもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである」  (ヘブル12:2)
  今日は「信仰の行為」について詩編40編の1-8節から学びます。「行い」については8節になって出てきますが、そこへのプロセスが大切です。
  1節「わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ」 「信仰」の最初に「待ち望む」ことがあります。いや「待ち望まなくてはなりません」。急いで走って行動にでる人がありますが、それは人間的行為ではあっても、信仰の行為ではありません。
 「待」という字は、「行にんべん」に「寺」と書きます。「待つ」ことは本来宗教的な行為です。大脳生理学でも、「待つ」行為は人間にだけできる特殊な行為だと言います。犬は「お預け」ができますが、せいぜい1、2分、猫は全然待てないそうです。それなのに人間は一般に「待つ」が嫌いで、すぐいらいらしてきます。
 「待つ」とは何もしないのではありません。「望む」のです。期待し、今やすばらしいことが起こると信じて待つのです。「待つ」ことは、「望む」こととペアです。この詩編では「わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ」とあります。忍耐をもって待つのです。赤ん坊が生まれる時、両親は10カ月も待たねばなりません。新しい生命が育つためです。もし早くなったら、早産でよくありません。このように真のものが生まれる時、神は待つことをさせるのです。神の時があるからです。
  1節「主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた」 待つとは「主を待つ」のです。待つ主体があるのです。ただぼうぜんと「果報は寝て待つ」のではありません。耳を傾けてくださる主がいます。
 あなたの信仰は一人芝居ではありません。神と二人の対話です。神はあなたの声を、祈りを、叫びを聞いてくださいます。しかも、「耳を傾けて聞かれる」のです。
 「聞かれる」には二つの意味があります。一つは音声を聞く行為です。それは「理解する」かも知れませんが、そこまでです。けれども「聞かれる」にはもう一つの意味があります。それは祈ったことが現実に成ること、実現することです。ここは後の意味です。
 主が私に叫びを聞かれるのは、その祈りが聞き届けられ実現した意味です。「祈って願うことはすでに得たりと信ぜよ」と、イエス・キリストは言われました。
  2節「主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引き上げて、わたしの足を岩の上におき、わたしの歩みをたしかにされた」 私が叫び、求める時、それと正反対の事実があります。すべてが順調なら、叫び求めたりしません。今ここで「滅びの穴」とか、「泥の沼」と言っているように、私たちはそこに落ち込んでもがいているに違いありません。そこから自分ではい上がるのではありません。そんなことができないから、「助けてくれ」と叫ぶのです。主は泥の沼から私を引き上げて、平らな岩の上においてくださいました。聖書で岩という時、神の力を意味します。Ⅰコリント10:4には、「彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない」とあります。
  3節 「主は新しい歌をわたしの口に授け、われらの神にささげるさんびの歌を、わたしの口に授けられた。多くの人はこれを見て恐れ、かつ主に信頼するであろう」 泥の沼から助け出すだけでは、消極的です。さらに私たちを前進させてくださいます。「新しい歌」です。新しい面がなくては信仰と言えません。しかし、その新しいものは、私の力で作り出すのでなく、その新しい歌は、神が授けてくださるのです。上からくるのです。そして「恐れと信頼」が共にあることが信仰の姿です。
  4節 「主をおのが頼みとする人、高ぶる者にたよらず、偽りの神に迷う者にたよらない人はさいわいである」 仕事をする人は、とかく高ぶり傲慢のとりこになります。しかし、主をおのが頼みとする人、神に信頼する人は幸いを得ます。神は高い人を低くし、低い人を高くしてくださいます。「おおよそ自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(ルカ14:11) 「神は智者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それはどんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである」(Ⅰコリント1:27)。
  5節 「わが神、主よ、あなたのくすしきみわざと、われらを思うみおもいとは多くて、くらべうるものはない。わたしはこれを語り述べようとしても、多くて数えることができない」 このことは私たちにとって多くの慰めではないでしょうか。
  6節 「あなたはいけにえと供え物とを喜ばれない。あなたはわたしの耳を開かれた。あなたは燔祭と罪祭とを求められない」 私たちは、神のみまえに素手でむなし手で、何ももたずに行くことができます。ただ一つ悔いたくだけた心をもって行くだけです。
  7-8節 「その時、わたしは言った、『見よ、わたしはまいります。書の巻に、わたしのために記されています。わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります』と」 ここで初めて私たちの行為が出てきます。それは神のみこころを行うことです。初めに待ち望みがありました。そして今最後になって行為が、私たちの行為がでてきます。その時、神のおきてが私の心のうちになくてはなりません。真の行いはそこから出て来ます。
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