10月23日(日)「恋愛・愛・神の愛」説教要旨

           聖句
旧約
 「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」  
(創世記Ⅰ:27)


  新約
 「愛する者たちよ、わたしたちは互いに愛しあおうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明かにされたのである」  (Ⅰヨハネ4:7-9)


    ある愛に関する本を読んだら、それに「恋愛は愛ではない、それは自分の欲求である」と書いてありました。確かに恋愛には自己中心の面がありますが、今日の旧約聖書を見て下さい。
「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」
神のかたちというのは、神の愛のかたちに人を男と女とに創造されたのです。人が男として、女として存在し、その交わりがる、その中に「神の似像」があります。公園のベンチで男女が語り合っている所にも、「神の愛のかたち」があるはずです。

  ただ恋愛には「惜しみ無く愛は奪う」(有島武郎)という別な面があります。愛であっても、非常に自己中心です。しかし、恋愛は正常に働けば、夫婦の愛につながってゆきます。「恋愛」→「夫婦の愛」→「親子の愛」です。もし利己的な面があるから愛でないなら、「夫婦の愛」でも「親子の愛」でも、およそ人間の愛には必ず利己的なものがつきまといます。しかし、どんなにそういう利己的面があっても、親子の愛にはそれだけでなく、自分を捨てる献身的面があります。

  そこで今日の新約聖書に目を向けて下さい、
「愛する者たちよ、わたしたちは互いに愛しあおうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者なのであって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明かにされたのである」
ここでは神の愛と人間の愛が類比関係になっています。恋愛の発展として、「夫婦の愛」を見てみましょう。夫婦は不思議です。性別、性格、生まれ育った環境もすべて違います。この全く違う者が、どうして結びつくかと言えば、本質的には「愛」です。 

  しかし、違いの面が大きくなると、危機になります。互いの不理解、不信、誤解などがあります。その極端な例は預言者ホセアです。ホセアは淫行を犯した妻ゴメルを受け入れる苦闘の中で、背くイスラエルをなおも受け入れる神の深い愛を体験します。
「わたしは彼らのそむきをいやし、喜んでこれを愛する」
それはまさに、十字架のキリストの愛です。
「私たちがまだ弱かったころ、キリストは時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったことによって、神は私たちに対する愛をしめされたのである」(ローマ5:6-8)
相違が、愛によって乗り越えられるのです。私たちの愛に冷たい風が吹き込んできた、その時こそが、神の無償の愛が働く時なのではないでしょうか。

  「愛は神から出たものである」。愛が初めからあるわけではなく、それは神から出、さらに私たちが作って行くものです。私たちには、ホセアのようなものすごい経験でなくても、小さい形では、互いの無理解、誤解、自己主張、怒り、争いは絶えません。
「キリストは時に至って不信心な者のために死んでくださった」
 それは何の価値もない者を愛されたことです。人間的愛をエロースの愛と呼びます。エロースの愛には、必ず何らかのエゴイズムが含まれます。争い、怒り、不満のもとは、この自己中心にあります。「惜しみ無く愛は奪う」のです。しかし、神の愛はアガペーと言います。よいサマリア人のたとえでは、ユダヤ人が軽蔑し、交わらなかったサマリア人が、そういう確執、相違を越えて、傷ついた人を解放し、自分の家畜の乗せ、宿屋に連れて行きました。そこには民族も宗教も性別もすべてを越えた愛があります。神の愛は、第一に差別がありません。価値なき者を愛する愛です。

  最後にゆるす愛です。ペテロは七度までですかと聞いたが、イエスは七度を七十倍するまで、その愛とゆるしは無限であります。でもそんな愛はできるのかと問うかも知れません。それは人間にはできないのです。それゆえイエスは、「あなたの敵を愛し、あなたをせめる者のために祈れ」と言われたのです。「祈れ」です。神の力を借りるのです。「愛しうる者を愛す、それならどこに神の力がいるのか、愛しえざる者を愛する、そこから先は神のためだと知らぬか」(八木重吉)。愛とは、あなたがするものですが、しかし、神の力を借りてあなたがするものです。

  愛しえない、ゆるしえない、そのためにイエス・キリストがいます。イエスの十字架の祈りは、
「父よ、彼らをゆるしてやってください。そのやっていることがわからないのですから」
でした。

  愛せよ、しかし、本当の愛は見当たらない。この世にない。この世にないから、私もしないのではありません。神が愛してくださった。あなたはまず受ける側になりなさい。あふれるばかりの神の愛を受け入れなさい。そうした時、何も言われなくても、あなたは少しばかり愛するようになっていますよ。与えよう、与えようとばかり思っていると、あなたの意識はちじんでしまいます。それよりか傲慢になります。しかし、一転して受け入れる側になりなさい。一杯受けた神の愛は、こぼれるようになって、あなたから出て来ますよ。

  このような愛、神的愛アガペーは尊いものです。それは私たちの自己中心的エロースの愛の中にも、縦に貫いているのです。「私たちの生きる意味は、決して科学や技術では生まれてきません。ただすべての宗教の本質である愛によってのみ与えられる」(トルストイ)という言葉もあります。愛とは他者を自分よりすぐれた者と認めることです。「いや、相手は私よりも劣った者で、すぐれた点など少しもありません」と言うのですか。そうではありません。どんな人でも、必ず何かすぐれたものをもつものです。「親子の愛」にしても、友達同志の愛でも言えます。年とった両親への愛、聞くこと、また子供についても、じっと耳を傾けることが大切です。心の弱い、あるいは心の病んでいる人の場合、特に大切です。最終的には、「名を呼ぶ」ことです。愛とはその人の名を見いだす、それは全世界でたった一つしかないもの、
「これらの最も小さい者にしたのは、すなわちわたしにしたのである」(マタイ25:40)
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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