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11月13日(日)「 違 い と 同 じ 」説教要旨
  聖句
旧約 「わたしは一つのことを主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを」   (詩編27:4)
新約 「マルタは接待のことで忙しくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、『主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください』。主は答えて言われた、『マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである』 」  (ルカ10:40-42)
  現代をポストモダン(近代後期)と言います。その特徴は同一性(同じ)でなく、差異性(違い)です。同一性は下手をすると、「日本人のアイデンティティー」など、すべてのものを均一化し、個々人の個性をなくし一律にする全体主義に通じます。
それに反抗し、一人一人の個性を主張するのが差異性です。イエスは、九十九匹を野において、迷う一匹を求めました。
  今ここでマルタとマリヤの姉妹がいます。二人はまったく性格が違っています。マルタはやり手、何でもてきぱきこなします。しかし、妹のマリヤは、おとなしい思索型の信仰の持ち主です。イエス様がこの家に来たのでマルタは、接待のことで忙しく働いています。
  一方マリヤは、イエス様が来られたので、喜んで、そのひざ元でお話しを聞いています。人間に違いがあります。それは当たり前です。もし違いがなく、すべての人が同じだったら、なんと退屈な世の中でしょう。違いは、私たちを豊かにします。ちょうどオーケストラが、いろいろの楽器からなり立ち、豊かな音楽が奏でられるように、私たちも相違性の中で、一人一人の特色がでるのではないでしょうか。
  しかし、互いの違いではなく、同一性(同じ)が働くことがあります。それが今のマルタの言葉に現れています。「マルタは接待のことで忙しくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、『主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください』」 マルタは、イエス様のひざ元で、じっと御言葉を聞いている妹が、しゃくでたまりません。ついに怒りが爆発しました。「主は答えて言われた、『マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである』」
  ここには随分考えさせられることがあります。まずイエスは、人間の相違性ということをよくご存じでした。マリヤの賜物を大切にします。マルタとマリヤを同一にしません。子供が二人三人あると、みな性格が違います。それを一律にはできません。会社で社員は皆性格が違います。持って生まれた育ちも違います。それを一律にしたら会社の経営はうまく行きません。相違ということは、大きな幅広い神様の恵みであることを忘れてはなりません。夫婦もまた相違性の中にあります。その違いを忘れたら、互いにうまく行かないでしょう。愛とは相違性の中の一致です。それは決して単純な同一性ではありません。
  次にイエスは、もう一つの相違性に気づいていました。「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」 これは性格の相違ではなく、事柄の相違です。私たちは毎日忙しく働いています。「多忙」の「忙」という字は、「心を失う」と書きます。多忙には、多いという字があります。仕事が多いのです。しかし、イエスは、仕事の多さの中で、そこに順序の相違があることを知っていました。「あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」。仕事に大小、前後があって、価値の高いものから低いものがあります。マルタは、仕事の大切さは知っていましたが、その多くある仕事の違いを知りません。大切なものと、次に大切なもののあることを知りませんでした。忙しさとは、この違いを忘れることなのです。
  最後に神と人間の相違を忘れてはいけません。「神はあなたがたのことをおもんぱかってくださるのだから、自分の思い煩いを一切神にゆだねるがよい」(Ⅰペテロ5:7) とあります。つまり神の人間の相違は、神は一切の心配をしてくださる、しかし、人間はどんなに心配しても、神の配慮とは全く違うということです。神の配慮は行き届き完璧です。しかし、人間の心配は、ただ心を痛め、当たり散らしたりするだけです。私たちは神と人間の相違くらい「知っている」と言うでしょう。けれども、実際の生活の中で、本当に知っているでしょうか。神様の偉大な力、そのくまなく広い配慮を知っているでしょうか。
  今は科学主義の時代で、コンピューターなど画一的に法則的同一化の傾向にあります。しかし、一つ一つの差異は大切です。今やっていることは、時間空間的に世界でただ一つ。このことです。その大切さをいくら強調してもし過ぎることはありません。イエス・キリストは、この最も小さいものの一人に注目します。差異が極まるところ名です。同一性は言います。私たちは人類だ、人間だ、次に言います、私たちは日本人だと、次は、次ぎはと続きます。最後に一個人に到達するはずです。それが名をもった個人です。イエス・キリストは常に「これらの最も小さい者の一人を愛するものは、私を愛するのだ」と言われます。相違の極まったところに名があります。その名を呼び、その名を大切にするのが、イエス・キリストの言われる信仰の精神にほかなりません。
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